久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

好奇心と感動を胸に〈1〉

目が開いている間は歩み続ける
一本の道を自然に容認されるまで



思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

 

魯迅「故郷」竹内好訳


四月は新入生新社会人が誕生する。桜は満開で(今年はもう散り始めてしまったが)世の中全てが自分を祝福してくれているように感じ、希望に胸をふくらます。今年の新社会人は約85万人という。押しなべてダークスーツに身をつつみ、新しい環境に身構えるかのように顔つきも引き締まった若者が街角にあふれる季節である。自分の将来はどうなるか、不安と期待が交錯するものの、夢は大きく、瞳は輝いている。しかしである。この新社会人が一年もしないうちに、ほんの数ヵ月のうちに「旧」社会人に吸収されていく。新しい環境に慣れてくるのとあわせて心と身体の緊張感が消えていく。なぜか?人は、二本の道のどちらを選ぶかで、その人の人生が決まる。これまで歩んできた一本の道が二本に分かれる時がくる。一本の道は「簡単で楽な道」、そしてもう一本の道は「厳しく苦しい道」である。熱き想いで自らの人生を捉え明確な目的を抱けていれば、目的に向かう明らかな道が見えてくる。私は、27年前に一本の道を歩きはじめた。これまで、自分の想いを書き散らし、書き溜めている。ここにちょうど10年前のエッセーがある。まだ若造だと言われつつも、新卒を大量に採用して10年近くたったときのものだ。


『目的地に行き着くまではこの歩みは止めない 誰に何といわれようと苦しくて嫌になろうと断じて歩みは止めない! 目が開いている間は歩み続ける 僕が選んだ一本の道だもの この道を歩くことが僕が僕であることの証明となるから 僕の先を歩く人がいるから 僕の後を歩いてくる人がいるから 瞬時たりとも歩みを止めることは出来ない 僕の歩みは周りにいる人の歩みだから 周りの人の歩みは、僕の歩みとなるから そして地球に住む生き物達の歩みとなっているから…この地球に息づく無数の生き物の歩みが僕を支えてくれている 僕を生かしてくれている 人間が自然に優しくではなく自然が人間に優しくしてくれている だから、僕は平和への一本の道を歩むことが出来る…この一本の道を与えてくれた自然に感謝しながら人間というこの命を与えてくれた自然に感謝しながら自然界から容認されている一本の道を自然と共に歩まん 人間の道という一本の道を自然に容認されるまで歩まん』(ヒューマンブックスVOl・2、1997年 9月)


「この10年間、お前は成長がないではないかといわれそうだが、目的としたものに向かって歩む姿勢が変わらないからこそ今でも自分自身は「新」社会人の緊張感を持ちつづけていられると胸を張れる。今回からこのコラムのタイトルを「道」としたゆえんである。

 

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  • 引用 RBAタイムズ 254号(2007)

「言志四緑」から学ぶ

一本の道を示してくれた菜根譚
常に人に一歩譲ること



「世を渉るの道は、得失の二字に在り。得べからざるを得ること勿れ。失う可からざるを失うこと勿れ。此くの如きのみ。」

【言志四録】


幼いころから母親に、事あるごとに、「得失は出来事にあるのではなく判断にある」といって聞かされてきた。指導者のためのバイブルと言われる言志四録にも、「世を渡る道は、得と矢の二字にある。得てならないものは、得てはならないし、失ってはならないものは失うべきではない。これが世を渡るための基本である。」とある。しかし、「どうやったら、得てはならないものを得ないでおけるのだろう?」また「どうすれば、失ってはならないものを失わずにすむのだろう?」それが出来れば、この人生これ程楽なことはない。そんな妙手はあり得ない、とは思いつつも心のどこかで「もしや」との気持ちも消すことも出来なかった。それはそうである。判断を誤ると得は失にかわることになり、失は失のまま終わるのである。これほど厳しいことはない。これが人生の本当の姿であろう。自らの判断で自ら不幸を招き寄せ、日々を振り回される人生。そんな厳しい日々が続く人生にならぬよう、一本の道を示してくれたのが以下にある菜根譚の一文である。


『世に処しては、一歩を譲るを高しとなす。歩を退くるは、即ち歩を進むるの張本なり。人を待つに、一分を寛くするは是れ福なり。人を利するは、実は己を利するの根基なり。』

(世渡りをするには、人と先を争うことをせずに、常に人に一歩を譲って控え目にするのが、自分の人格を高尚にする所以の道である。その一歩を譲り退くということは、これとりもなおさず、数歩を前進さす伏線ともなるものである。人を待遇するには、厳格に過ぎてはよくないので、一分ほどは寛大にすることが、これやがては、自己の幸福をもたらす所以の道である。このように、人に利益を得させることは、つまり自己を利するための土台となるものである。)


私はこの道に沿って、得は失にかわらないように、失は失のまま終わらないように、歩んでいる。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 255号(2007)

「近思録」から学ぶ

母の教えを想い出させた近思録
心に主人公を持つこと



「心に主人公を持つことだ。なにが主人公になるのか。敬である。」

【近思録】


幼い頃、母から教わったことに、「自分の心に従って大事なものを決めてはいけない。なぜなら、自分の心ほど当てにならないものはないからだ。」がある。そう教えられているにも関わらず、自分の心を当てにし、自分の心に従い、自分の心を信じ数々の後悔をする羽目になった。この経験から、『心』と『心の働き』は違うことに気付かされた。こんなことがある。「好き」と思っているのに、何かの出来事(=外部との接触)により全く反対の「嫌い」を口にする。この場合の「好き」が『心』で、何かの出来事により口にする「嫌い」が『心の働き』である。このように私たちの『心』がどれだけ正しいと判断しても、想定外の何かの出来事がきっかけで、その判断の変わる可能性は高いということである。確かに、「人と先を争わないように」を心がけても、外部との接触により顔をもたげる負けず嫌いに押し切られた自分がいた。また、「常に人に一歩を譲って控えめに」を実践しようとしても、知らず知らずのうちに人の前に立つ自分に手を焼いたこともある。これまで、心に固く決意すればするほど同レベルの『心の働き』に邪魔されて思うように行かない自分がいたのである。


そんな時以下の文に巡り会うことができた。
「曇りのない鏡がここにあった場合、万物は全てそれに映るが、それは鏡の常態である。鏡に物が映らないようにさせるのは、むずかしい。人の心は万物に感応しないわけにいかない。心に思慮させまいとすることは、むずかしいものだ。それを免れたいなら、心に主人公を持つことだ。なにが主人公になるのか。敬である。」【近思録】


心の働きをコントロールする道具は、「心に主人公を持つこと」だった。この文章に出会って、それまでの自分は全く逆の「自分の心を主人」としてきたことに気付いたのである。それからは「自分の心を主人」とすること無く、「心の主人」を抱き日々の業務にあたり現在を迎えることができている。感謝!

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 256号(2007)

「三字経」から学ぶ

成人して理解した母の教え
「泥棒でもいい。日本一になれ」



『子不学 非所宜 幼不学 老何為』  『犬守夜 鶏司晨 苟不学 曷為人』

【三字経】


幼い頃、母から言われ続けられていたことに「とにかく、勉強はしなさい。成績の問題ではない。いいから本を読め!勉強しろ!」がある。小学生のころから国語は、“小学一年生”なる月刊雑誌に目を通すことを義務づけられていた。当然、嫌で嫌でたまらなかった。なぜなら、読んだ箇所の感想を言わされるからである。それがたまらなく、毎日、狭い家の中を逃げ回ったものだ。
我が家はそれだけでなく、小学校一年生から塾に通うことを義務づけていたのだ。学校を終えると仲間たちと遊ぶ事が何よりも楽しみだった時期に、一人塾通い。この苦しみたるや未だに脳裏から出て行ってくれない。この時に、「先生が風邪を引いているから」という見えすぎた嘘をつき塾を休む事を覚えた。同時に、嘘はバレるものだという事もこの身をもって分かることとあいなった。


その時に母がよく口にしていたのが、「犬だって役目を果たしているから食事にありつける。(当時我が家は、ブルというシェパード犬を飼っていた。お遣い、留守番、お迎え等々ができる利口な警察犬卒業生である)人間の世は、勉強しなければ生きていけないんだ」「例え泥棒でもいいから、二十歳になった時、胸を張って日本一になりました、と言えるようにしなさい」である。そんな母だからこそ、高校4年、大学8年が現実となっても成績について口にする事はなかった。その母から離れて東京にきて次の言葉と出会った時、幼き頃の日常と母の言葉が瞬時に、そして鮮明に蘇ったのである。


それは、三字経の『子不学 非所宜 幼不学 老何為』である。「子(こ)として学(まな)ばざるは宜(よろ)しき所(ところ)に非(あら)ず 幼(よう)にして学(まな)ばざれば 老(お)いて何(なに)をか為(な)さん」そしてもう一つ、『犬守夜 鶏司晨 苟不学 曷為人』「犬(いぬ)は夜(よる)を守(まも)り 鶏(にはとり)は晨(あした)を司(つかさど)る 苟(いやし)くも学(まな)ばずん 曷(なん)ぞ人(ひと)と為(な)さん」あの時の母の言葉は、成人を迎えるまでにしっかりと勉強をしておけ。でないと、社会人になった時価もできないぞ!との教えであった、と。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 258号(2007)

「中庸・孟子」から学ぶ

「玄関の靴事件」「嘘事件」 の思い出
父の教え「やり始めたら最後までやれ」



『人一能之、己百之、人十能之、己千之。』  【中庸】
『有為者、辟若堀井。堀井九靱、而不及泉、猶為棄井也。』  【孟子】


編集の方から「お母さんに大変薫育されたのですね、ではお父さんついてはどうなのですか?」と問われた。父の教えと言えば「やり始めた事は最後までやれ!できるまでやれ!どこまでもやれ」と、そして決まってその後、「一丈の堀を超えられない者がなんで二丈、三丈の堀を超えられるか?ボケこらっ!」と、幼い頃から言われ続けられたことだろう。この言葉どおりのことを身を以て教えられたのだ。


それは、「玄関の靴事件」である。父が夕方家に帰って来た時、玄関の靴が揃っていなかった場合は容赦なく羽交い締めされ往復ビンタを頂いたものである。それはできるまで続けられた。もうひとつは、「嘘事件」である。家団欒の途中嘘がバレた。僕はすぐに「ごめん」と謝ったのだが、にもかかわらず父の顔は鬼と化していた。叩かれる痛さ、怖さにおびえて裸足のまま外に逃げだした。それからである、やっぱり父は逃げる僕を自転車で追いかけてきた。振り返ると父の姿が迫っている。とっさに僕は、畑に逃げ道を求めた。痛い足を我慢し一目散に走る。しかし父は父である、自転車を乗り棄て走って追いかけてきた。体格の違いは距離を縮めるのにそう時間はかからなかった。見事捕まり、総括されたのである。このように父は自らの行動を持って「やり始めた事は最後までやれ!できるまでやれ!どこまでもやれ!」と恐怖とともに教えてくれたのである。高校4年生の時、退学の道を諦め、恥を忍んで一年間通えたのもこの教えのお陰である。また、大学8年間に繰り返された退学の誘惑に負けずに屈辱の日々を乗り越える事ができたのも、父のこの一言と「人が4年で卒業ができても、お前はできないのだから倍の8年かかっても卒業しろ!学費は心配するな!」との言葉があったればこそである。いま第三企画を経営する日々においても、この二つの言葉はコトある毎に耳元で「ボケこら」と共に聞こえてくる。父の愛により高校・大学と12年間学ばさせて頂いたお陰で、父が学んでいたであろう一文と出会う事ができた。


それは、『人一能之、己百之、人十能之、己千之。』(中庸)「人一たびして之を能すれば、己れ之を百たび、人十たびして之を能くすれば、己れ之を千たびす」(他人が一度でよくするならば、自分はこれを百度する。他人が十度して成し遂げられるならば、自分は千度くり返してそれをする。)そしてもうひとつ、『有為者、辟若堀井。堀井九靱、而不及泉、猶為棄井也。』(孟子)「井を掘ること九靱にして、而も泉に及はざれば、猶お井を棄つと為すなり。」(いくら九靱の深さまで井戸を掘っても、泉のでる所まで掘らなければ、それは井戸を棄てたも同様だ。本当に事をやり抜く人は、井戸なら、水が出るまでは掘ることをやめないものだ。)


そんな父は、昨年他界してしまった。もう叩かれることもない。また、面と向かって教えてもらうこともできない。しかし、きっと父も生前机に向かい同じことを学んでいたんだ、と確信する自分がここにいる。この小さな発見が、今、尊敬する父と同じ行為ができているのでは、という安心感にもなっている。僕の父は、偉大な父であった。乗り越えることのできない大きな存在である。そんな父に出会えて、最高に幸せであった。天に感謝している。そして今日も父の息子として恥じない人生を歩もうと日々決意しながら生きている。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 259号(2007)

「論語」から学ぶ

父母の教え 我が人生
大学まで父から逃げ惑った



「己欲立而立人、己欲達而達人」     【論語】


僕が高校3年生を前に「どこの大学でも行かせてやる」との父の言葉を信じ、これからの時代大学行くのなら海外の大学。そう心に決めイギリスとアメリカから願書を取り寄せました。いよいよ願書提出をしようと、自信と期待を胸に元気いっぱい父に向かいました。しかし、父は「確かに大学は何処でもいいと言った。だからといって海外の大学でいいとは一言も言ってない。日本の大学でなければ駄目だ。しかも法科。それ以外は絶対に許さない。行くのは一校だけなのだから、受ける大学は一校だけで十分!それ以外は駄目だ!」と一喝。自分が検察庁に勤める価値観をもって私の力説する将来の話にも大学の話にも、一切耳を貸してはくれなかったのです。


私は「海外の大学に行けないのならい今すぐ仕事をした方がましだとある時は友達のところに転がり込みガソリンスタンドでアルバイトを始めたり、またある時は喫茶店のマスターの家に転がり込むというように何度も家出を試みました。そのたびに父の手がまわって婦人警官の一斉捜査の前に見事に補導され連れ戻されてしまったのでした。このようにして高校を卒業する19歳まで、家庭という強制収容所みたいな環境で育てられた私には非行に走ることの自由も与えられていなかったのです。父にたいして申し訳ないことだと反省していますが、よく「国家権力の犬の言うことは聞かない!」と反抗してました。「法律を犯しているわけではないし、誰に迷惑をかけているわけでもない、だから罰せられることはない。僕は間違ったことはしていない。」と、遠くから腰を引きながら何度も何度も、言ったことを今も忘れられません。当然捕まったら羽交い絞められ往復ビンタという体罰が待っているからです。そうです、高校卒業まで父から逃げまくってました。


このような紆余曲折の上、日大芸術学部という失望と妥協による環境を勝ち取り、怒涛の8年間が始められたのです。そんな私をいつも見守ってくれた母は、「お父ちゃんは貴方が嫌いなんじゃないんだよ。自分が勤める国の法律やこの社会にある道徳だけではなく、久米家には久米家としての生きる道がある、ということを教えてくれているんだよ」と、ことあるごとに諭してくれました。そして「うちの家は安月給の公務員。間違っても海外の大学にやれるだけのお金はない。だからあなたの海外の大学は諦めなさい。その上で、どうしても海外の大学に行きたいと思うのなら、自分の子どもからそうするようにしなさい。だからといってあなたのやりたい事を子どもにやらせようなんてことは考えてはいけないよ。あなたのやりたい事は、あなたの孫から始められるように今から準備をすること。それがあなたに課せられた人生なんだから」と・・・。


母の言葉の、「子どもにやらせようとはしなさんな」は今や知らず知らずのうちに我が心から芽を出し、我が人生の核となって「子どもには僕の後を継がさない!」となり、「孫から始めるように」の「子孫」は第三企画の若いメンバーとなり、「300年後の子どもたち」になったのです。そして私に課せられた人生は、「300年後に生まれくる子どもたちに今以上の地球環境を残し行く」人生になったのでした。久米家の生きる道の訓(おしえ)として父母からこの体に叩き込まれた精神が論語の「己欲立而立人、己欲達而達人=己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達すべし」(自分がこうありたい、こうなりたいと思う事は、自分から人にやってあげなさい)であったことに気づいたのです。両親を誇りに思い心から感謝する次第。これからの我が人生は、父の人生、母の人生でもあるのです!

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 260号(2007)

ナンバーワンとオンリーワン

存在自体がオンリーワン
勇気を出そう 道は開ける


ナンバーワン
ナンバーワンを目指せと
高い目標を掲げろと
目標達成に励めと

成功のため、成長のため
遠い目標に向かって今日一日を生きよ

計画に沿って確実に
しかし、現実の日々において蹟くのは
弱点と、不得意部分

誰に言われなくても
どうしてもその部分が気になる
だから見つめなおす

弱点と欠点と弱い意志
忘れまいと、念を押す
いつでも、どこでも、何事においても駄目だと

成功と幸せと充実を目指しているにも拘らず
一回しかない今日一日
自己の否定に精をだす

自分の得意を知ることなく
自分の強みを知ることなく
これが、ナンバーワンを目指す実態?


オンリーワン
ナンバーワンを奨励しながら
オンリーワンも賛美している
最初からこの世に同じものは二つと無いにも関わらず

今いること自体がオンリーワン
この世に生を受けた時点でオンリーワン
人と違ってこそ貴方、それでこそオンリーワン

しかし、いつも周りと比較され
負けるな!がんばれ!

しかし、この世は勝者のいない競争社会
舞台は絶えず新しい主役を用意する
いつの世も勝者は期間限定のものでしかない

まさに入れ替わり、立ち代われるのがこの社会
だからこそ、だれでも出来るということになる
なんであれ特別なものは存在し得ないようになっている

だからこそ、自らを殺すことを教えられ
コミュニケーションの大切さを教えられる
貴方を自信喪失にするために……

そんなことに振り回されず
自分に対する無理な要望を止めてみよう!

勇気を出して止めてみよう!
きっと、きっと道は開けるから

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 261号(2007)

人生の理想

止まれ 現代人!
“インスタントに頼るな”



人生の理想、持ってますか?
私たちは、飲まなければ生きられない
食べなければ生きられない
そして、呼吸しなければ生きられない

しかし多くの人は、これらのことを忘れ
健康のためといい、体を鍛える運動を心がける
(排気ガスが充満する車道を、走る人たちがいる)
それに飽き足らず、サプリメントづくしの日々?
(ダイエットなのか食事を制限しながらの栄養剤)

これらに走る人達は、要注意!

さては、肉体だけが成長した人達なのか?
考えることを忘れた人達なのか?
それとも完全に消費者としてプログラムされた人達なのか?

とはいっても………健康への不安は少ない
それなりに、充実する日々を過ごしてはいる
もちろん、大事な事や、重要な時は考え判断を下している
しかし、時折心の隙間に襲い来る不安と空虚の正体は何なのか

身体だけ鍛えれば、目的とする栄養だけを摂取できれば
何事も簡単に手にできればと、インスタント情報の吸収に走る
形があり、目に見えるモノから得られるエネルギーには限りがある…

止まれ現代人!
一回しかない人生を、生きていくエネルギーをお持ちですか?
そして、その正体をご存知ですか……


欲望・目的は外からやってくる
私達人間は、不幸になる為に努力できる生き物でもある
また、周りから不幸といわれても幸せと言える生き物でもある

そんな私達は、努力する事は知っている
そして、競争する事も知っている
だからこそ、他人と比較して生きられる

現に、今も生きている

そこで知らなければならない事がある
私達は、一人では何も出来ない生き物だという事

私達は知らないものを欲しがることができない生き物
また、経験しないものへの目的を持つ事もできない生き物
そんな私達の日常は、インプットしたモノのアウトプット作業

入れたモノ以外は出しようが無い
だから挨拶で分かる、身なりで分かる
態度で分かる、表情で分かる、言葉遣いで分かる

そう私達は、口・目・耳・鼻・肌からしか入れられない
食べ物にこだわるように、見るものにもこだわってあげよう!
聞くものにも、香りにも、身体全体にもこだわってあげよう!
その時、果たして今と同じ人たちが貴方の周りにいるだろうか?
「友は第二の我なり」(アリストテレス)とは至言である

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 262号(2007)

“自分”とは “人生”とは

原点に還るときかもしれない
人生はギャップの中にある



「ちょっと考えて」見て下さい
さて貴方は、自分の「自」をどう読んでまずか?もし「自(=みずか)ら」と読んでいたら矯正する必要があるのかも?なぜなら、自らと断定すると何事も自分で決めていい事になるからです。

何を知ろうとするかは自分次第。何を経験するか決めるのも自分次第。これだと、みんな自分の好きにしちゃいますよね。主体である本人がいかなる存在かに関係なく、その時々に他人と比較し欲しいもの、好きなものを入れる。果たしてこれで幸せになれると考えられますか?

前号で人生とは、インプットしたもののアウトプットであると……。教育は学校にお任せ、生活費はご主人頼り、そして自分は若作り。嫌な事には顔を出さず、資格に実力をすり替え、自分は趣味に走る。こんな現実は、どんな自分を基準にしたら可能になる?そもそも、形あるものにはそれぞれの機能がある好きなもの、欲しいものを組み合わせれば機能不全を招く事も。そう私たちの言う「不幸」とは、この機能不全に他ならない。

止まれ現代人。本来、自分の自とは「自(=みずか)ら」ではなく「自(=おの)ずから」だった。

そして「分とは、分け与えられた性質・身の程・力量(=分)」を指す言葉である。これらから、自分とは分際(=その人に応じた限界身の程)の異名となる。自分とは、もとから持っているものの(在り方の)ままということ。だとすると、そろそろ原点に還る時かもしれない…。「ヒューマンブックス」(第三企画発行)より転載


せめぎあい
生きること。
それは、「理想と現実」と「理論と事実」。この「せめぎあい=鬩ぎ合い」である。そして「鬩ぐ」とは「(あらそう)に、(子ども)」による会意文字。漢字を結合し、それらの意味を合わせて書き表す方法。

「信」とは、「人」と「言」を合わせた会意文字。=疑わずに本当だと、心の中に強く思い込むこと。同様に「鬩」とは「ゆずらない、こども」である。私たちの人生は理想と現実のギャップの中にある理論と事実のギャップの中にある誰にも心当たりがある。それは、嘘をついた事。真実を言わなかった事。

ということは…私たちの眼前に現れる「事実と現実」果たしてそれは「真実」と言えるのか?理想とは、「考えられる限りのもの」である。理論とは、「事実による体系的知識」である。

ちょっとまった!現代人の「人生」って……?真実を無視した観念の遊戯?
「ヒューマンブックス」(第三企画発行)より転載

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 263号(2007)

家族

僕の人生(一回しかない人生今在る恩)


家族は私そのものである。

父は厳しく
居心地はよくはなかった
母はうるさく
気の休まる時がなかった
しかし、いつもちゃんと居場所はあった

よく喧嘩し助け合いもした
世界で二人しかいない兄弟
仲良くする事が人生の役目と育てられた

そんな家族があってこその僕である

父・母には、
人類と平和の為に生きよ!と育てられた
武士の子らしく生きよ!と
見えない糸で縛られ続けたそんな日々の積み重ねが、
第三企画の出会いをもたらせてくれた

だからこそ
今まで、家族に大切にしてもらった分
ずっと、家族を大切にしている

そんな矢先、父は天に還ってしまった
父からしてもらった恩返しは、まだできていない
だからこそ、墓前で300年後への恩返しを誓った
きっと父も分かってくれるはず、と信じて

これからも今まで以上に全力で生きる!
父の教えを左手に、母の教えを右手に
一回しかない僕の人生を

人類の幸せのために…
世界の平和のために…
今、第三企画に集うすべての家族のために……
それが僕の人生のすべてだから……


 

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  • 引用 RBAタイムズ 264号(2007)

“何のため”

何万年もの前から受け継がれきた命


僕の命
僕は、幸せにも人間に生まれきた
たくさんある命の中、人間の生を受けることができた
この世は連関の世、ならば必ずこの命には意味がある

僕の命は、何万年もの前から受け継がれきた命
決して僕一人のものではないと受け止めている
だから、命ある限り感謝あるのみと生きてきた

ある時までは、
何万年もの間つないでくれた人達に対して感謝の毎日であった

そしてある時から、300年後に生まれくる子ども達に対しての想いの日々となった
感謝は、有り難いことへの御礼から、
今ある命の使い方(使命=報いる日々)へと昇華した

僕は、食事しなければ生きていけない
沢山の草木や動物達の尊い命により生き存えている
僕のために草木と生まれ、魚と生まれ、動物と生まれ、
今僕となっている

今の僕は、そんな動植物達へ感謝しなければならない
動植物達からもらったこの命、
今も生きられているこの命
どんなことがあっても無駄にしてはならない!

その想いが僕に「何のため」の哲学を贈ってくれた
そして
僕の命を生き存えさせてくれている動植物達のためにも
僕は幸せにならなければならない、と想えるようになった

だからこそ、その幸せは永遠に崩れないものでなければならない!
だからこそ、他人の不幸の上に幸せを築いてはならない
だからこそ、周りの人達の幸せの上に自らの幸せを築かなければならない

そこから僕の命は、
「人の前に明かりを灯す」日々となった
そして、「人による」との哲学も形を成してきた
そして、「共鳴」のエネルギーが
第三企画を誕生させてくれた

そんな第三企画は、君との出会いをもたらせてくれた

だから僕は、君の幸せのために生きる
それが僕の命となってくれた、動植物達へ報いることと信じられるから……
僕の命をつないできてくれた人達のために報いることと信じられるから……

君の幸せが、君の家族の幸せを創り、
社会、国、世界の幸せを創る原点だから
僕の命は、君の幸せのために在る
それが僕の「何のため」だから

今日も、君の前に明かりを灯しゆくのだ!
だから今日も、明るく、元気に、朗らかに
僕の生命は、平和に向かう行動者であり続けるのだ!


 

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  • 引用 RBAタイムズ 265号(2007)

父の言葉”

“求めて得たものでないからこそ本物”


流れのままに生きる
今も耳に聞こえる父の、言葉
 とにかく、やることだ!
 やる限りには興味を持ってやれ!
 自分の力無さを、思い知らされるから!

何度も同じ事をしていると怒られた
 なんで工夫しない!同じ経験するんだったら、工夫しろ!
 「こうやっていこう!」と思わないのか?阿呆か!馬鹿なら馬鹿になってみろ!
 同じ事をやるのは、愚か者のすることだ!
 的を外してもいい、遅くてもいい
 同じ事を新しいやり方でやってみろ!

眼鏡から目をはみ出しながら
鬼の形相で機関銃の如く

そんな父が恐くて、無我夢中でやってきた
すると知らないうちにこんな僕になってしまった

今も父は僕の身体に染み付いている
 誰の真似をするのでなく
 自分らしくやり切ること
 それをやれば、やるほど
 自分を主張する事だから

またある時
 無我夢中でやっているのはいいが
 お前は、何のためにやっているんだ!
 やる事が目的なのか?どうなんだ!と言われてきた

やるせなかった
思いの持っていき場所がなかった
ただ母の優しさが身にしみた

そんな父は今僕の身体に生きている
 やる限りには、ただやるな!
 目的を見据え最短を走れ!
 何時もその為の工夫をしろ!

 人生に無駄はない
 経験できるものはすべて自分のため
 それを信じること
 その生き方が、自分を信じる事であり他人を信じる事

 人間が生きるということは
 相手を大切にする事であり
 目の前の人を大切にすること

そして現在
「人の前に明かりを灯す」第三企画の経営に全力を尽くしている
「求めて得たものでないからこそ本物」
これからも育てられたように、全力で久米信廣を生き抜いて征く


 

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  • 引用 RBAタイムズ 266号(2007)

“諸行無常”

与えられた寿命を価値あるものへと転換しゆく


「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」

【平家物語】


人生、諸行無常の先を目指して
私達の社会生活には家族が在り、会社が在り、仲間が在る。
そしてすべては諸行無常である。


時は家庭内の変化を招き寄せ、会社では定年を運んでくる。仲間は、時のうつろいとともに自らの意思に反し入れ替わる。世間では、存在する万物で変わらないものはない。古来より言い伝えられてきた「万物流転の法則」がこれである。建物は壊される為に建ち、人は別れる為に出会いがあり、会社における幹部は変る為に就任する。個人の生活でいえば、今に全力する人にもやがて人としての魅力はなくなり、目先の成果に集中する人に目指す未来は訪れない。ましてや家庭だけの人に、社会的な充実と個人的な満足は遠のいていく。


人生における悟りとは、諦念とは、諸行無常を受け入れることである。だからといって、ハイそうですかと言っていられないのが人間である。それがゆえに、もがき苦しみ、工夫しながら生きるのである。その結果、自分の立ち位置を見失い、彷徨う人が後を断たないのも事実である。今を失わないために今にしがみつき、雑念を払いのけようと耳を塞ぐことに全力を尽くす。未来の事など気にする暇はなく、ただひたすら今の帳尻を合わせることに勤しむ。そして先行き不安を隠したまま今を生きる。


しかしである。定年も、結婚も、家庭も、仲間も、人生という寿命までは長くない。だからこそ、せめて寿命までの日々の充実を目指そうと私は決意している。第三企画もRBAも、そんな諸行無常である人生を充実させるために天が用意してくれたものであり、そこでお会いする皆様方との出会いは天が用意してくれたものと解釈している。これまでお会いいただいた皆様方、そしてこれからお会いさせていただくことになる皆様方に改めてよろしくと申しとげる次第。これからも全力で、一回しかない人生という与えられた寿命を価値あるものへと転換しゆくために、僕は頑張ります。

 

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 267号(2007)

「番外編」

経験していない反応はあり得ない


一を識りて二を知らず
(一つのことだけを知っていて、その他のことを知らない。知識や考え方が極めて狭いたとえ)

【荘子】


性格は変えられない?!
性格は変えられない!と言われ
性格は変えられる!とも言われている

そもそも性格の「性」とは、心が立っている状態の生
人が起きている間に(物事に出会う度に)働く心の働き
その働きが他の人と比べて際立つ様を見て私達は性格と言っている

総じて性格とは、
「その人が生まれつきもっている感情や意志(性質)などの傾向」
と辞書に書かれるようになった

そして、「三つ子の魂百まで」とも言われている
幼児の性質は一生変わらないものだという

ここでいう性質は、言動に現れるその人に
備わったものを指している言動であるから、
その人の発する言葉と行動である
それらは、出会いごとにその身体の内から
湧き上がりくるものである

とする性格とは、
経験による反応と言い換えてもおかしくはない
ここで大事な事は、
「経験していない反応はあり得ない」
正に荘子して「一を識りて二を知らず」と
言わしめる如くである

経験していない反応はあり得ない
だから性格はひとつしかない
それを、人は変えられないという

もうひとつの性格を知りたければ
新たな経験をすればいい…
ただそれだけで性格は新たになる


 

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  • 引用 RBAタイムズ 番外編1(2007)

「番外編」

他方を知っていて一方を知らない


一を識りて二を知らず
(一つのことだけを知っていて、その他のことを知らない。知識や考え方が極めて狭いたとえ)

【荘子】


続・性格は変えられない?!
「心に善悪有りや否や」との問いに答えた興味深い言葉がある

「天にあてはめれば『命』といい、
 物にあてはめれば『理』といい、
 人にあてはめれば『性』といい、
 一身にあてはめれば『心』という

 このように実質は、一つである
 心は元来が善でありそれが心の働きに現れると
 善ができ不善ができる
 心の働きが外に現れる場合は、
 “情”という事はできても“心”とはいえない
 例えば、水は水といえるだけである、
 しかしそれが流れ出し支流を作り東や西に行ったりすれば、
 水といわず“流れ”と言うようなものである」

私達がいう性格とは「感情や意志」を指している
感情とは、喜び悲しむ心の働きであり
意志とは、積極的に目指す心の働きである

ここで早くも性格は、二つに分かれている
荘子のいう「一を識りて二を知らず」とは
一方だけを知っていて他方を知らないことを戒めた言葉である

ということは、他方を知っていて一方を知らないこともある
いわゆる「性格を変えられない」
と言っている人は他方に明るく、一方すなわち自分に暗い人なのかも知れない

この場合においても「性格は変えられない]というでは、
もう一方を知ればどうなるのか?新たな性格が現れてくるということにならないのか

さて貴方は、今も 「性格はひとつ」と想いますか?


 

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  • 引用 RBAタイムズ 番外編2(2007)

2008年「善進する第三企画」

過剰な自我を出さない
それが自分自身を生きること


論語「子罕第九」に「子絶四、母意、母必、母固、母我=子四を絶つ。意母(な)く、必母(な)く、固母(な)く、我母(な)し」とある。すなわちこの四つは、①主観的な私意②必ずやり通そうとする無理押し③頑固に自分を守り通そうとするかたくなさ④自分のことだけを考える我執―――である。孔子は常人の陥り易い四つのものを断ち切って、きわめて円満であったという。


私たち現代社会を生きるものとしては、耳の痛い話である。なぜなら私たちの目の前に氾濫しているネット・書物などにおける情報の多くは、①欲しいものを手に入れなさい。その方法は… ②夢をでっかく持つべきである、そして夢を追いかけなさい③何であれ内容問わず主張しなさい、主張することは個性的である。だから個性的でありなさい④とにかく頑張りなさい、頑張らなければ負け組となりますよ―――以上の四つそのものである。まさに私たちの人生とは、「意に起こり、心に遂げ、固に固まって、我に成る」である。ここでいう「意」と「必」は事前に位置し、「固」と「我」は事後に位置している。すなわち私たち自分自身の生は、「意と必」「固と我」の中間(=自分)に位置(=自身)しているということである。そして、そのサイクルによって形成される「我」が新たな「意」を生じさせるという人生のスパイラルの上に展開されているということでもある。日々忙しく過ごすこの繰り返しの積み重ねが、私たちの人生を作っているのである。


ゆえに第三企画では、①人は変化し成長もするが、何かの目標や方向に向かって成長や進歩を遂げるというわけだけではない②生きるということに過剰な自我を出さないことが第三企画における「品位」である―――と定め、日々の経営に臨むものである。なぜなら、私たち人間の「夢や目標」を追いかけ過ぎる行為は、現実という今から眼を反らすことにつながりかねない危険性を孕んでいるからである。当然、個人においても、そんな挑戦する自分の感情に飲み込まれ(自分の感情を過大評価し過ぎて)自分自身を見失うことになりかねないからである。そんな私たちが暮らしている世の中は、決着のつかない出来事・感情ばかりといっても過言ではない。だからこそ、自分を優先させないことが自分自身を生きることにつながるという逆も成り立つのである。
それが2008年第三企画が「善進」を掲げ「自分自身」に生きる理由である。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 270号(2008)

不易流行の日々①

来る者拒まず去る者追わず!
そして、来る者に希望を 去る者に幸運を!



会社を経営していると、人の心が移り変わることはごく当たり前に経験することである。ある時、そんな生々しい現状を消化できなくて母に相談した。その時の話しで今も覚えている言葉が「去る者追わず」である。


「死生命あり、富貴天に在り(人間の生も死も、はたまた貧富、貴賎も、すべて天命であって、個人がどうすることも出来ないものだ)」(論語)とは、悪い兄をもった司馬牛の嘆きに対して子夏が悟した言葉である。人間は動物の一種、動く生き物である。しかし身体だけではなく、心の状態までもが動き回ってしまうから困ることになる。その「動き回る心の状態」を「気持ち」という。決意する不動の心とは別に、目に接するモノによって変わりゆく心の表れようが気持ちである。宣伝文句ではないが、「分かっちゃいるけど止められない!というねじれ現象。心で固く決めただけに、止められない言い訳をさがす自分の気持ちに腹が立う。誰もが少なからず経験することである。


そんな私たちは手にできないと分かりながらも、お金に囚われ、車に囚われ、地位に囚われ、名誉に囚われ、家族に囚われ、メンツに囚われる。世の中を見渡してみても、経済界の頂点に君臨したにも関わらず、欲に目がくらみ夕立の如く流れ去っていく人が何と多いことか。また最初はやる気満々の意思表示をしながら、年月が経つと自らの言動を翻し、やらないことを正当化する輩(やから)が後を絶たない。流行とは、「一時」的に広く世間に受け入れられることである。その「一時」に沿って動き回るものが私たちの気持ちである。やる気が旺盛の時は良い環境と判断しても、やる気が衰退すると悪い環境だと判断してしまうのが気持ちの動き。その環境は、善悪などないひとつのモノであるにも関わらず、である。このように私たちが生きるということは、あらゆる物事に囚われ追いかけ回すことだといっても過言ではない。しかしどのような人も心は悪くない。ただ動き回る気持ちに振り回されているだけである。「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、「振り回されている気持ちを哀れみ、人を憐れむな」である。今日も不易流行の日々を生きると誓う次第だ。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 272号(2008)

不易流行の日々②

来る者拒まず 去る者追わず!
そして、来る者に希望を 去る者に幸運を!



「不動産業界の繁栄と発展を通じ、300年後に生まれ来る子ども達に今以上の地球環境を残しゆく企業経営をもって、人類に貢献する」

第三企画の企業理念である。いわゆる経営上ではなく経済上としての使命を持ち続ける心である。300年後に生まれ来る子ども達の生活を安定させるために今の社会をよくするという、社業を通じての心の体現世間では志と云われているものである。創業当時、この志を掲げ日夜頑張ったものである。直球の生き様ゆえ何事にも、正直に理念を、志を口にした。その度ごとによく言われたものである。「なに寝言を言っているんだ。そんなことより仕事しろ!」「平和だの、300年後だの、君は詐欺師か!」等々まともに相手をしてくれる人は少なかった。
しかしこの世は捨てる神あれば拾う神ありと言われる如く、第三企画はここまで生かさせて頂くことができた。本当に感謝、感謝の日々である。「人生志に適するを貴ぶ」とは張翰(西晋の人。黄河流域に生まれ、才能を見込まれ内陸の首都洛陽の政府高官となった)の言葉である。「人生は想いに従った生き方を尊ぶべきである」との意。確かに人生は、志に適することは大事である。金に志を持つ人は、寝ても覚めても金儲けに奔走すべきである。権力に志を持つのであれば、昇進をすべてに優先させるべきである。何事においても実現すれば満足はできる。


そこで第三企画だが、その理念は、経世済民に焦点を当てた志である。ゆえにおのずと日常の過ごし方が決まってくる。だから、他人の満足を羨むような愚はおかさない。それよりも、「上戸は毒を知らず下戸は薬を知らず」ではないが、「上戸は酒を楽しむべし下戸は餅を楽しむべし」である。別の志を尊ぶ者として、去る者には幸運を願わずにはいられない。さて前述の「人生志に適するを貴ぶ」には前後がある。「張翰は、秋風が吹き出したのに逢って、故郷の県中の菰菜(まこも)と蓴嚢(じゅんさいのあつもの)と鱸魚の膾(すずきのなます)とを思い出して食べたいと思い、『人生は思いに従った生き方を尊ぶべき』で、どうして故郷を数千里も離れた所で高官に就くべきだろうかと言って、籠に乗って故郷に帰っていった。この後すぐに、主君は敗れた。人々は、張翰のことを機を見るに敏な人で、上手に身を引いた人だと思った」―晋書―という文脈で使われている。故郷の鱸魚(すずき)と膾(なます)を辞職の口実にして生き延びたという訳である。どう考えてみても私は、張翰のようには生きられそうにない。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 273号(2008)

不易流行の日々③

「苦しい方」と「楽な方」があったなら惑わず苦しい方を選べ!


『「苦しい方」と「楽な方」があったなら、惑わず苦しい方を選べ!」』と言われ育ってきた。高校を落第した時も、大学の落第時もそうだった。父の「何があっても卒業しろ!」の一言から逃れるために、真剣に悩んだ。そこで父に高校を辞める事を認めてもらうために、「裁断の学校に行きたい。自分はもともと美術が好きで興味がある、だからファッションデザイナーを目指そうと思う、その為には洋服の裁断を身に付けておかなければならない。だから大阪の裁断学校に行かせてほしい。」と意を決してお願いをした。自分なりの精一杯の物語をした。その結果は、「何考えてるんだ!高校も卒業できなくて何ができるというんだ!いらん事を考えずに高校を卒業しろ!」との厳しく残酷な一言からはじまった高校四年目の生活。それまでとは全く違う天国から地獄の日々、それは恥ずかしくて顔を上げることもできない辛い日々の一年間だった。しかし正直すごく楽しくもあった。皮肉にも、その四年目にお世話になった先生と友達から大学への道が開けることになった。


大学においても結果的に八年かかって卒業。その時も、五年目で退学を決意し父に申し出た。弟の大学入学も一つの理由だった。予定外の学生生活では経済的に余裕のない公務員の父に迷惑をかけられないとの理由もその一つだった。しかし何よりの理由は、これ以上大学に通うのが嫌だった。何よりも苦痛だった。そんな思いから出た退学願いだったが、「いったん目指したことは何があっても最後までやり切れ!」と却下。その一言から苦い中にも楽しかった三年間が始まった。そしてこの時期に、今の基礎となる人間関係が築かれていった。曲がりくねる僕を強制的に真っ直くしてくれた父のお陰で、いまや「苦しい方と楽な方があれば、何の抵抗もなく苦しい方を選ぶ」という日々を生きられるようになった。


そんなある日、「楽処の楽は真の楽に非ず苦中に楽しみ得来たりてわずかに心外の真機を見る」―菜根譚―。(楽しい環境にあって感じる楽しみは、本当の楽しみではない。苦しい経験の中で楽しみを得てこそ、人は初めて精神的にも行動にも真機、すなわち本当の心の働きを見出たすことができる。)との言葉に出会うことができた。今だから言えることだが、15~16才の頃や21~22才の頃の「好き」や「得意」を最優先していたなら今はない!それもそのはず、22~23才の若い頃の不確かな自分が選ぶ「好き」や「得意」が確かなものであるはずがない。そんな「好き」を基準に選択をすれば誤ることはあっても的を射るには程遠くなる。なぜなら、「好き・良い」は印象に左右され、「嫌い・否」は生理的なものからの反応だからである。今は亡き父に感謝しつつ、若いメンバーに「苦しい方・嫌な方」を選ぶように!と話す日々である。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 274号(2008)

「理想・実現・現実」

今も16歳から思い定めた道を歩む
毅然とした母の後ろ姿を追う



母は華道と茶道を続けている。今年でかれこれ70年近くになろうか。弟子を持つ今も自ら学んでいる母が自慢でもあり、師匠でもある。この母の後を追っかけるのに私は必死である。幼いころから貧しくも毅然とした母の姿を見ながら大きくなってきた。だから人生は何があっても前を向き進むのが当たり前のように、あたかも見えない糸で縛られたようになりながら育てられた。そんな見えない糸に対する反抗を様々に試みてみたが、傷つきながらすべてが不発に終わってしまい、現在を迎えている。(そのおかげで)寄り道しながらではあっても、今も16歳から思い定めた一本の道を歩むことができるのは、両親の厳しくも暖かい指導があったればこそである。あの時あれほど憎んでいたのに、絶対に口をきかないと決めていたのに、年とともにありがたくなってくる。


親の存在とは、不思議なものである。同時に、夢と希望は豊かさや貧しさとの関係性がまったく無いと痛感する。誰一人相手にしてくれない時期であっても、母は信じ続けてくれた。人間不信に陥っていた時、僕の対応にすべての原因があると諭してくれた。落ちこぼれの僕を最後の最後まで信じてくれた。いつでも、どこでも最強の味方だった。いや今も最強の味方である。その母のためにと人生一事にふんばっている。
そんな僕の支えとなったのが、約680年前の徒然草にあるこの一文である。「芸能を身につけようとする人は、『よくできないような時期には、なまじっか人に知られまい。内々で、よく習得してから、人前に出ていくようなのこそ、まことに奥ゆかしいことだろう』と、いつも言うようであるが、このように言う人は、一芸も習得することができない。まだまったくの未熟なうちから、上手の中にまじって、けなされても笑われても恥ずかしいと思わずに、平然と押しとおして稽占に励む人は、生まれついてその大分がなくても、稽古の道にとどこおらず、勝手気ままにしないで、年月を過こせば、芸は達者であっても芸道に励まない人よりは、最後には上手といわれる芸位に達して、人望も十分にそなわり、人に認められて、比類のない名声を得ることである。世に第一流といわれる一芸の達人といっても、初めは下手だという噂もあり、ひどい欠点もあったものである。けれども、その人が、芸道の規律を正しく守り、これを重視して、気ままにふるまうことがなければ、一世の模範となり、万人の師匠となることは、どの道でも、かわりのあるはずがない。」(小学館日本古典文学全集)
この一文が理想に向かう僕の支えである。また、母の後を追う僕の道である。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 275号(2008)

流れに逆らわず

流れの速さで、自らの力で流れゆく
不幸とはマイナスに働いた欲望の集積



「人間は欲望をエネルギーに生きている」と教わったこともあり、人生とは欲望の使い方だと断じて今まで生きてきた。そしてその使い方に、プラスとマイナスがあることを発見した。不幸とは、マイナスの使い方の集積だといっても過言ではない。マイナスの欲望は、同類の人を呼び込んでくる。そう考えるからこそ、マイナスに敏感にならざるを得なくなる。同時に、プラスを見るよりマイナスを見るほうがより効果的だと考える。人間は、良いものに心を奪われれば奪われるほど、固くなってしまい足元を見失う生き物である。だからこそ、最初に悪いものを正確に知るべきだ。そもそも人間とは、行きたくない場所は理屈抜きで避けて通る生き物だからである。


私達の潜在意識に内在している三大欲望の実体とは、①欲しいものをどこまでも欲しがるエネルギー、②相手を攻撃するエネルギー、③楽な方に向かうエネルギー、この三つの欲望エネルギーである。このエネルギーの使い方次第で人は人間ともなり、動物のようにもなりながら生きていく。①の例として、良いことがあると、それに満足することよりも、更にもっと!と欲望に突き動かされるのが私達だ。もう、そこで止めればいいのに!というのが周囲の見方であるのに。同様に、高ぶる感情を抑えきれなくなってしまい言いすぎることがある。それが原因で取り返しのつかない事態を招くことがある。これが②の例である。まったくもって自分の言葉に追いまくられる始末である。火に油を注ぐとはこのこと。自ら油を注いで、自ら火傷をする。何事においても争いで得られるものは無いのにである。また、③の楽な方に向うエネルギーの例は、良いと分かっていても手をあげないことがある。身体に悪いと分かっていても止められないこともある。誰が見ても価値的でない逆の方向に突進してしまう。この行為に費やすエネルギーたるや半端なものではない。そんな誰もが理解に苦しむような行為が日常生活において、いまだに後を絶たない。


よく言われる言葉がある。「今あるすべてに感謝しなさい。縁のないものとは出会わないのだから。」「むやみに批判はするな、批判は依存の裏返しなのだから。」「見えない明日より、見える今に全力で生きろ。」など。総じて、「流れに逆らわず、しかもその流れの速さで自らの力で流れていけ。」との教えと解釈し今を生きていくのはどうだろうか。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 276号(2008)

人材育成のために

楽しみは対象にあるのではない
対象と向き合う自分の中にある



今年度も新しいメンバーを迎え新しい一年のスターを切った。初々しい新入社員を前に背筋を伸ばし取り組む日々を過ごしている。そして彼らと接するとき、日々において自分の若かった頃を思い出しながら話しをすることにしている。「学校(高校)が面白くないから行きたくない!」と言い、父から「学校が面白いはずがないだろ!その考え方がおかしい!」と怒鳴られたこと。当然渋々行くことになったのだが、その時は父の言うことがよく分からなかった私。また音楽活動をしている大学一年の時、プロダクションからのレコーディングの話があった。母を喜ばせることができると思うと嬉しくて母に報告した時、母から「19歳で社会の何が分かるの、今は勉強しなさい」と冷たく否定され、腹が立つのを通り過ぎて母の存在が許せなかったこと。その時も「音楽に楽しみがあるのではないんだよ!」との母の言葉がよくわからなかった私。私は自分が向かう対象に楽しみがあると信じていたのである。


ところが二度言われ冷静に振り返ると、どれも自分から進んで楽しいことを探していたことに気がついた。それならばと、遊んで楽しくない対象にあたってみようと赤羽の魚屋さんでアルバイトを始めた。面白いはずない、楽しくない対象はどんなにしたって楽しくはないんだ、それを証明したくて決めたアルバイト先であったのだ。その結果をもって父母に意見しようと企てた。しかし僕の目論見は見事に外れた。魚屋さんを毎日楽しみ、愉快に過ごした日々、確かに遣り甲斐があった。本当に今も忘れないくらいびっくりした。なぜか毎日毎日のバイトが待ち遠しくて仕方なくなってしまっていた。最初の思惑を忘れてしまい、魚屋さんをやりたくなっていた…。今や対象に拘らなかった自分がある。


そんな体験を思い出しながら、若い人には、目の前に現れてくるものに有りのままに向かおう、と話している。そして自分勝手に判断しないように、事ある毎に父母への相談は欠かさないように、普段の挨拶をやるようにと話している。対象に楽しさを求めている若い方々に今だからこそ言える。「楽しみは対象にあるのではなく、自分にある」と。「やりたい仕事に楽しさがあるのではなく、例えどんな仕事であっても、工夫する自分の中にある。」ということを。そして「そんな君たちを育ててくれたご両親と接する中にある」ということを力説している。なぜなら両親を尊敬できない人に、上司を尊敬できるわけがないと考えるから。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 277号(2008)

幹部の人材育成

不祥事にわれ関せずの経営者
選び従う方にも大きな問題が



最近の若い者は…とは、いつの時代でも耳にする言葉である。いわく、「最近の若い者は老人に席を譲らない」果たしてそうであろうか?若者としては言われるから譲っているのだろうか?私はそうは思わない。電車に乗り合わせてよく目にするのは譲らない若者がいるかわりに、譲られて座らない老人がいる何か変な風景である。できる人は言われなくてもできる人であり、逆にできてなくて言われている人は、言われてもできない人である。こういえば言いすぎであろうか?


さて、「最近の若者はルールを守らない」、これもよく聞く話しである。公共施設を大切にしない、電車の中での振る舞いが…、コンビニの前でたむろする等々。何故か若者が標的にされている感じである。私たち大人は大きな顔をしてそんな事を言えるのだろうか?私は否と言う。現に、不祥事を起した企業の幹部たちが記者会見の場で、揃って頭を下げて謝罪する光景がTVの画面で繰り広げられているではないか。しかも、名の通った大企業の不祥事の連続投である。
彼らは勿論、立派と言われてきた大人である。そんな方の口をついて出てくる言い訳が「部下がやった」「現場が勝手に…」等々、まさにわれ関せずと言わんばかりの言葉である。自ら棚に上がった!経営者の責任はどこに行ったのやらである。「最近の若い者はマナーを守らない」と嘆いている方々は、何を根拠に「守れ」と言っているのだろう?非常に興味がある。私はこう思っている。「マナーといい、ルールといい、挨拶といい、一人で暮らす事のできない人間が考え出した生きる為の最低条件である『他人を思いやる』という行為だからこそ、自分の為にも守らなければならないものである」と。
だからこそ、若者は言うに及ばず人間である全ての人が守るものである。老人に席を譲る事に関してもそうである。今私たちが生きられるのも先人の方々の労苦があったればこそであって、そんな先人である老人たち(先輩たち)に対する「尊敬と労いの気持ち」があるからこそ、例えば席を譲るという行為が産み出てくるのである。もちろん、挨拶も然りである。


さて、そこで企業における経営者の姿勢である。私も中小企業を経営している関係上、他人事と感じられない。頭を下げている経営者の皆さん方を本心で許せない。私が経営者として最も大事にしているものは、「会社組織の構築、幹部の育成と配置・任命」という一大仕事である。そこには自ら棚に上ってしまう姿勢は、もちろんない。そんな私の日常から考えるに、恥も外聞もない経営者も問題であるが、そんな人を経営者と選び従う方々にも大きな問題があるのではと、中小企業だからこその立場で考えている。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 278号(2008)

足し算と引き算の人生

歴史を彩る一人の小さな行為
良きも悪しきも認め受け入れる



人生において大切な事は「足し算と引き算だからね」と言われて育った。引き算とは、何かあるとすぐに「できません」「それは無理です」「考えさせて下さい」等々自ら避けて通ろうとする人達のこと。このような人達こそ「引き算の人生を歩む人達」だと僕は教わって来た。


「引き算の人」は、自分にはできないと思っているのだから、できない事をできない自分に向かって薦めるような人を信じられる訳がない。なんて不親切な人なんだ、分かってない!と考える。
そして、このような出来事を重ねる度に人間不信となってしまう。すなわち、自分をできない人だと思い込んでいる人にとって、できない事を薦める人は信用ならない人なのである。自分を信用できない人は、相手も信用できない。また自分の悪い所ばかりが気になる人は、相手の悪い所ばかりを見てしまうものである。挙げ句に自分を好きになれない人は、相手を好きになることはない。このように私たち人間は、自分を見ている目と同じ目で、相手を見ているのである。


また逆に、「やらせて下さい」「できます」「もっと詳しく話して下さい」等々「足し算の人」がいる。自分から手をあげた一つひとつに真面目に取り組む人は、時にやりすぎ、無理のし過ぎになる。そんな場合、話しを薦めた人は黙って見過ごす訳にはいかなくなるので、陰に陽に協力体制に入る事となる。すなわち、前向きに生きる人には、前向きな人が応援に入るようになっている。どうも人間という生き物は、自分が自分自身について理解している内容を尺度にして他人はどのような人なのかを計る生き物らしい。まさにアリストテレスの「類は友を呼ぶ」につながるのである。であるからこそ、自分と真っ正面から向き合い、良きも悪しきも認め受け入れることが大切なのである。そうすれば自然と他人とも真っ正面から向き合えるようになってくるからである。第三企画が推し進める「人の前に明かりを灯す」行為とは、このような姿勢から目指す一人の小さな行為である。この小さな一波が万波となり私たち人間の歴史を彩っていくのを楽しみにしたい。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 279号(2008)

孟子の一文に助けられる

「憂患に苦しんでこそ本当の生き方」
決して逃げずに一人前を目指す



創業当時から楽な事はなかった。ヒト・モノ・カネが無い上、情報までも無い状態でのスタートである。来る日も来る日も苦難の連続であった。そんな時の心の支えとなったのが母から言われた「誰にだって試練が来るわけではない。試練に出会うという事は貴方に役目があるという事だよ。」また、「人には、乗り越えられない試練は無い!来たという事は、必ずその試練は乗り越えられるということだ。」である。当時、確かにそうかも知れないなと思いあたることがあった。だから一度歩み始めた道からは決して逃げることはなかった。そう思い返すと、確かに第三企画も自分から選び進んだ道である。そのことに気付けば、困難に向かって真正面から取り組む事ができ、まっしぐらに28年間を走ってきた。


そんな苦しみの日々のなかに孟子の一文があった。舜は田んぼを耕していたところを尭から引き挙げ用いられるようになった、その事を例に挙げる個所である。「天が人に大いなる任務を与えようとする時は、必ずその人の心や志を苦しませ、その筋骨を疲れるほど働かせ、その一身を窮乏にさせ、する事なす事がそのしようとする意図と食い違うような苦境に立たせる。こんなにもこの人を苦しめるのは、天が、その人を発憤させ、その人の本性を忍耐強いものにし、その結果、今まで良くする事の出来なかったものをなし得るように、その人の能力を増大させ、そして大任を負わせるに足る人物にしようとする為である。


人というものは、おおむねあやまって後によく改め、心に苦しみ考えにあまって、そこで初めて発憤して事をなし、困苦が心にたまって、思わず顔色にあらわれ、声に出るようになって、そこでやっと悟ることが出来るものである。国家においても同様で、内には法家(法度を守る世臣)・払士(君を助ける臣)がなく、外には敵国・外患のない国はおおむね亡んでしまうものである。以上のことを考えてみると、人というものは、憂患に苦しむことによって本当の生き方が出来、安楽にふけることによって、だめになってしまうという事が分かる。」(新釈漢文体系孟子)だから今日も頑張れる自分がある。第三企画の目的である300年の継続を現実のものとする為に、多方面からの方々のお力を借り、人前を目指す日々である。しかし右があるように左があるのは当たり前、一方に片寄ってはバランスを崩すことになりかねない。組織は正直である。反省しきりの昨今、相変わらず困難の日々が続く。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 280号(2008)

僕は日本人

忘れかけていた、“農耕民族”の生き方
鉢植え草木にみる人間社会の掟



最近の出来事に振り回され、鉢植えの花々や木々に水をやるのを疎かにしてしまった。七年前位から一緒に暮らしてきた友たちである。雨の日を除いて、毎朝朝食の水を注ぎながら話しをしてきた。僕の苦しい時も悲しい時も話し相手になってくれた。動かないから安心だった。今から思い返せば沢山の大変な時もあったはずだ。暑くて耐えられない時もあったのだろう、また寒くて凍えてしまいそうな時もあっただろう。でも暑く寒いコンクリートの上でじっと我慢をしながら毎年花を咲かせ、青々とした葉をつけてくれた。それだけで安らげた。しかし今年になって毎朝の対話が途切れ途切れとなった。内外に起こりくる激変がピークを迎えた五月後半頃には、そんな草木たちのことなど頭のどこを探しても見当たらなかった。そんな激動の日々を過ごすなか、工夫を加えることができるようになった。最近になって、東に位置するコンクリートの広場に目が向くようになった。


ある日の朝そこから目に飛び込んできたのは、無惨にも枯れ果てた木々たちと薔薇であった。一瞬身勝手にも我が目を疑った。彼らは、どんな思いで枯れていったのか。炎天下にもかかわらず水をくれない主をどういう目で見ながら命絶えていったのか。何も喋らないことをいいことにとんでもない罪を犯してしまった現実に潰されそうになった。この地球に生まれてきたという意味では、僕と同じ命である。そのような命を持つ彼たちを、僕の楽しみの為に栽培し始めた訳ではなかった。しかし、結果的に自分の楽しみとしてしまった。僕という個人的な身勝手な楽しみが、大切な自然界の尊い命を絶やすことになってしまったのである。人間の都合のよい奢りがもたらした残酷な現実である。


僕たち日本人は、雨の日も風の日も田んぼに行って雑草を抜き、水をやり作物を育ててきた農耕民族である。どんなことがあっても、仲間と力を合わせコツコツと努力を積み重ねゆく農耕民族であった。またそうしなければ生きていけなかったのである。僕はそんな日本人でありながら、とんでもない間違いを犯していた。僕の草花たちが、毎日毎日水をやらなければ枯れてしまうように、会社も全く同じだと素直に思える今日この頃である。この経験により、自然界に対する人間の身勝手な振る舞い(自然に成長・生育する流れを変えること)は、必ず人間界に負の遺産として還ってくるものだと理解出来るがゆえに、今日も地球と積極的に関係をしていこうと決意している。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 281号(2008)

私の毎日

「当り前のことを疎かにする現代社会」
流れの早さで、自ら流れゆく日々



今の社会は、経済的に非常に苦しい時期である。もちろん社会全般に言えることでもある。いわゆる当たり前のことが当たり前でないという意味において苦しいのである。ごみが落ちているのを見つけたら、まずは拾ってゴミ箱に捨てる。これは当たり前のこと。子供に対して誰もが教える事柄。それに付け加えてごみのポイ捨てはいけないことを教える。こんな当たり前のことが疎かになっている。自分でしたものは自分が片付ける。これが人として生きる道であり、人間社会の理(ことわり)だ。それに準じると、「私ならこうしている。あなたはなぜそうなのか?だから結果が違ってくる。ゆえに、ここをこうすべきだ!そうでなければならない」と私は主張する。それが社会人としての歩む「道」であり「理」だと信じる。それを無視したまま、過去の職業で慣れ親しんだ考え方、理解の仕方、対処の仕方の枠のまま、「経営」を、「政治」を司ってはいけない。


世の中を見渡せば、人の倫理を棚にあげ、企業の倫理を論じる経営者・学者の姿勢が極めづけであるが、もう一つの雄が政治家である。社会保険・年金問題が脚光を浴びていた頃、ミスター年金などと持ち上げられ、批判のための批判を繰り返す人をご記憶ではないだろうか。あたかも理性的に話しているようでいて、中身といえば論理と立場を忘れて感情を振り回す。まさにプロパガンダそのものなのに公共の電波に朝から堂々と乗せる。現代社会の苦しみは、人間社会の根幹を成す倫理において、当たり前のことが疎かになっていることである。わが社にも「楽をしてたくさんの給料をもらいたい」という人や、「準備は嫌、だが表舞台には出たい」などと、わがままを言う人がいる。そんな人が多くなってくると、人間としての生きる道が見えなくなってしまう。この流れを止めるために日々の仕事が費やされている現実が最大の悩みである。本来であれば、もっとお客様への貢献について全てを費やすべきなのに。


最近になってよく親の言葉を思い出す。「人間は誰であっても一人では生きていけない。周りの人たちとの触れ合いによって育てられるのだ。だからどんな時も、周りの方々への感謝を忘れないように。」また、「周りにいる方への思いやりを忘れないように。何事にも誠実に礼儀正しく接するように。その日々があなたの人生となり、あなたが生きるということになる」と。当社の役目は、社会の流れに流されず、勇気を持って当り前のことを当たり前に体現していくところにある。ゆえに、人間として生き、人間として生きる努力に全力を尽くす経営の舵を取り続ける毎日が、私の道である。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 282号(2008)

我一本の矢にならん!

日本に押しよせた、“浪費への圧力”
今“圧力”撥ね返す矢を放つ時



米国で問題となっている「サブプライム」という言葉は、マーケティングの世界においては「信用リスクの大きい消費者である中低所得者」を指している言葉だと聞いている。それにならえば米サブプライムローンは、リスクという危険を承知した上であえて信用度の低い人達に向けて用意した住宅ローンである。このサブプライムローンに世界の金融機関が群がった。この日本では、確かな事実の裏付けをもってしても「信用リスク」が大きすぎると一般融資を断る日本の金融機関もその群がった一つである。さて、日本を牽引してきた会社に広告会社電通がある。その電通の中興の祖、吉田秀雄四代社長が説いたものに鬼十則がある。電通マンはこの鬼十則に叱喧激励され、電通は現在の地位を築いた。その電通は、「はっきり言って、間接的ではあるが、いま電通と関係のない日本人は、まず一人としていないのである。」とまで公然と言われる企業である。(植田正也氏著・電通「鬼十則」、PHP文庫)


この巨大な企業をつくりだした原動力が1970代の「電通戦略十訓」である。
これは、【1、もっと使わせろ。2、捨てさせろ。3、無駄使いさせろ。4、季節を忘れさせろ。5、贈り物をさせろ。6、組み合わせで買わせろ。7、きっかけを投じろ。8、流行遅れにさせろ。9、気安く買わせろ。10、混乱をつくり出せ。】というものだった。
実はこの戦略十訓は、米国人ジャーナリスト、ヴァンス・パッカードが1960年に著した「浪費をつくり出す人々」の7つの戦略をヒントとして作られたと言われている。その7つの戦略とは、「もっと買わせる戦略」「捨てさせる戦略」「計画的廃物化の戦略」「混乱をつくり出す戦略」「月賦販売による戦略」「快楽主義を植え付ける戦略」「人口増加を利用する戦略」である。また、そこにはこのように記されている。「アメリカ市民が日常生活でより浪費的になるように工夫している人たちは、われわれにより多く浪費させ、われわれを消費生活でより無分別で不注意にさせる。この圧力のもとで、われわれはどこに流れていくのだろうか。この浪費への圧力が、アメリカ国家と国民の行動、性格に及ぼす影響はどういうものだろうか。
私は、これが最も重要な問題だと思う。われわれはできるだけの同情と忍耐をもって、この問題を見きわめることにしよう。」これは米国で問題となっているサブプライムローンを予感させるに余りある。そしてこの懸念は、そのまま日本に当てはまる。だからこそ、この的に矢を向けることが必要な時期でもある。
我この一本の矢にならん!

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 283号(2008)

300年後を目指して

今は我慢、「駅伝経営」に徹する秋(とき)
次世代に確実にバトンをつなぐ



アメリカ発のマネーゲームが発端となった金融危機が世界を覆い、この日本も漏れなく大地震が起こっている。政府は緊急対策に追われている。グローバル化を主導した国が震源地である故、当然と言えば当然のことである。主役が人間から経済にすり替えられたにしても苦しむのは当の人間である。そして誰が得をしたと言えるのだろう?グローバル化に合わせて、国を挙げて、「戦略十訓」(「道」前回号ご参照あれ)の思惑通り、我こそ一番になろうと、他人を押しのけ頑張る消費者へと全国民がマインドコントロールされてきた。それが日本である。そんな国に暮らす私達の日々に安心の家庭が出来るはずがない。生き甲斐に満ちた日々を過ごせるはずがない。希望に胸膨らませる子ども達が育つはずがない。殺伐とした社会になって当然である。お金や物を手にするために人の命を奪うことが日々のニュースで流れるような崩壊した社会が、消費大国日本である。
この国をリードしてきた指導者も、ことは深刻である。会社経営における後継者(二世)問題は日々の経営における大きな問題となって中小企業等を覆っている。そんな現実を打開するための政治を、二世・三世の政治家が執っている。これも「戦略十訓」の狙う総国民無能化が行きわたっている証左と考えられないだろうか?そう考えると、解決が見えない現状が理解できる。経営においては、中小企業も国も次元を同じくするといえよう。こんな現状を許しているからこそ、未だに企業の不祥事が後を絶たないのである。


そんな中わが第三企画は、300年後を目指しての経営に全力をあげている。現状、苦しい日々の連続である。しかし格好わるくてもいい、傷だらけで立ってるだけだと言われてもいい、何を言われても我慢して生き延びようと工夫している。まさになり振り構わずではあるが、第三企画はそうしなければならない使命がある。第三企画の理念と目指す目的を守り抜かなければ人類の未来はないと信じている。
今は、この社会を我が物顔で暴れまくる黒船経済の怪物に食われることなく生き延びなければならない。例えドンケツ(一番びり)であろうと、駅伝のように次の世代にバトンを繋ぐ経営に徹しよう。駅伝といえば、駅伝制は特命任務を帯びた朝廷の使者を中央から地方へ派遣するためのシステムとして始まったそうだ。私は次世代にバトンを繋くこの駅伝の使者を自認する。例えこの命をかけても!これこそ私の一本の矢である。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 284号(2008)

「我執を絶つ」と地球の意思

目の前に全力尽くし天命を待つ
過剰な自我を出さない品位尊ぶ



論語に「子絶四、母意、母必、母固、母我=子四を絶つ。意母(な)く、必母(な)く、固母(な)く、我母(な)し」(卷第五、子罕第九)とある。すなわち、孔子は常人の陥り易い四つのものを断ち切って、きわめて円満であった。


四つとは、主観的な私意、必ずやり通そうとする無理押し、頑固に自分を守り通そうとするかたくなさ、自分のことだけを考える我執、である、と。私達現代社会を生きるものとしては、耳の痛い話しである。なぜなら私達の目の前に氾濫しているネット・書物等における情報の多くは、①欲しいものを手に入れなさい、その方法は云々、②夢をでっかく持つべきである、そして夢を追いかけなさい、③何であれ、内容問わず主張しなさい、主張することは個性的である、だから個性的でありなさい、④とにかく頑張りなさい、頑張らなければ負け組となりますよ、というものである。まさに私達の人生とは、論語と逆で「意に起こり、心に遂げ、固に固まって、我に成る。」である。ここでいう「意」と「必」は事前に位置し、「固」と「我」は事後に位置している。すなわち私達自分自身の生は、「意と必」「固と我」の中間(=自分)に位置(自身)しているということである。そして、「我」が新たな「意」を生じさせるというサイクルによって形成されるスパイラルの上に人生が展開されている。この繰り返しの積み重ねが、私達の人生を作っているのである。


第三企画では、人は変化し成長もするが、何かの目標や方向に向かって一直線に成長や進歩を遂げるというわけではないと見切って、生きるということに過剰な自我を出さない、と戒めて日々の経営に臨んでいる。それが第三企画の「品位」である。「夢や目標」・「願望や失望」を追いかけ、求めすぎる行為は、現実という「今」から目を逸らす危険性を孕んでいる。挑戦する自分の感情に飲み込まれ(自分の感情を過大・過小評価しすぎて)自分自身を見失うことになりかねない。特に「百年に一度あるかないかの規模の信用市場大波乱」の津波が押し寄せてきている現代社会においてはなおさらである。ここに第三企画が「品位」を重んじるゆえんがある。私達が暮らしている世の中は、決着のつかない出来事・感情ばかりといっても過言ではない。
そんな現代だからこそ、孔子のいう四を絶って目の前の事柄に全力を尽くし天命を待つ日々を送るのが地球の意思に沿うことになる。だからこそ、自分を優先させないことが「自分自身を生きる」ことに繋がるという逆説が成り立つのである。地球の意思に沿っていれば、いかなる出来事にも耐えられる。第三企画はそういう存在たることを標傍している。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 285号(2008)

評価社会と間人主義

人と人との間に自然がある社会
「和を以って尊し」が日本の文化



現代社会を「評価社会」といっても過言ではない。見渡せば、幼稚園から始まって大学・会社へと…更には会社に入ってからは退職のその日まで業績に追いまくられる。まさに終わり無き評価人生である。
そこで重くのしかかってくるのは評価による善悪・勝ち負け・高低等の二極化である。このような社会に暮らすのであるから、人々が内にこもるのも考えてみれば当然のことともいえる。評価社会ゆえ、失敗は評価が下がることになりかねない。一人で悩まなくていいことも他人に打ち明ければ、これまた評価が下がることになりかねない。全く心休まる所も時もない。それが現代社会が欝病的社会となっている問題なのである。社会におけるほころびが個人に降り掛かり、日常生活に置ける欝的状況をもたらしているのである。


ところで、文化は人によって形となって現れてくるものである。西洋に西洋の文化があるように、日本は日本の文化がある。人間が一人で二足歩行が出来ないように(人が二足歩行出来るようになるためには、それ相応の努力、すなわち教育と訓練が必要とされる)、それぞれの国には二足歩行同様、言葉を含め、身体を張って個人に伝えられる生活方法がある。個々人におけるそれらの総称がそれぞれの地域における文化と言われているものである。
その文化の基本が「個人」ではないところに日本の特徴がある。狩猟により生活を成り立たせる西洋の社会が個人から始まるのに対し、稲作中心の農耕により生活を成り立たせる日本は、個人と個人の間にある「間」から始めなければならないという事情があった。すなわち、人と人の間にある自然(農耕による収穫)が命をながらえさせてくれるという事実を見据えてこそ人は存在できる、という視点が日本の文化の基本となったのである。


その年々における収穫の状況が、そこで暮す人間に直接影響を与えるという関係性があって、それが人間の生活の基本となったのが日本である。日本の文化を成している個人は、あくまで、自然の一部である農耕という作業を中心としたその周りに存在する人間という関係の延長にある。いかなる場合も自然を間に置いた人と人の繋がりが人の在り方を作ってきた。それがこの国、日本である。これは限大教授だった浜口恵俊の唱えた間人主義の私なりの捉え方である。
だからこそ周りの人との関係を常に気にし、その関係の中に自分の在り方を見つけようとするのである。正に「和を以って尊し」とする間人主義、これが日本の風土文化である。この文化こそ第三企画の生き方である。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 286号(2008)

自我=セルフ=エゴ

西洋主義に堕した西洋主義
“自助”見倣った日本、綻びも当然



「可愛がっていた子犬を殺された」といっては関係官庁のトップやその家族を刃にかける、「経営が厳しくて、つい…」と殺虫剤や発がん性のカビ毒に汚染された事故米を転売する、こんな現代社会だからこそ目先のことを憂いていても事態はよくならない。何事も根からの解決を目指さなければならない。西洋社会と異なり、文化の基本が「個人」ではないところに日本の特徴があると前号で述べ100年に一度の経済危機と言われている現象についても、経済の面からではなく、この現象の原因となっている西洋社会を成立させている西洋文化の骨格である個人主義の価値観から見ていこう。


ここでいう西洋個人主義とは、私に言わせれば自分中心主義である。自分(自己)とは、意識や行為をつかさどる主体ある。言い換えれば、自我である。この自我を英語ではselfといい、ラテン語ではegoという。たしかに、個人主義と利己主義は別物である。しかし、利己主義の定義である、「自分の利益を最優先にし、他人や社会全般の利害など考えようとしない態度。身勝手な考え方」そのものに今の社会がなっていないだろうか。すなわち個人主義とは、利己主義(エゴイズム)の異名といても過言とはならない。
個人主義の社会では、個人が自由で独立する存在であるからこそ、同じ個人である他人は、自分の自由と独立を脅かす存在にもなる信頼できない個人、と映るのである。だからこそ、人は自分の自由と独立を確保・維持するため自分以外の人達を、自分を脅かさない他人という関係に固定すべく「契約」という制度を作り、ギブアンドテイク(妥協・譲歩)という互酬制度を作り上げた。


つまり西洋社会は、個人主義・契約主義・互酬主義という三大主義をもって成り立つ社会なのである。そして個人主義の骨格を成すものが「自助」である。この自助を成立させるためにも契約・ギブアンドテイクという道具が必要となる。この道具を使って個々人が自助の連携をするために集団化したものが、西洋社会の実態である。だからこそ西洋社会最も重んじられるのが、自助・自己責任・自己管理なのであって、これを個人レベルから集団レベルへと強めたのが国家である。その力を更に強めるために、国家間では条約(NATO等)を作っているのである。そんな西洋社会の個々とは、個人をベースにしていない日本は全く異なる国なのである。その日本において、西洋の個人主義をもって国家運営を行ってはほころびが生じるのも当たり前である。だからこそ、100年に一度の金融危機をまともに受けることになったのである。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 287号(2008)

自分ならではのD3

与えられた役目を担い日々に全力
夢=Dream ・ 躍動=Dynamic ・ 劇的=Dramatic



人生、先は闇である。しかし誰もが今の延長であると信じて生きている。明日を迎えられるのが奇跡的なことであるにも関わらず、何の思いもなく床についている。まさに、生きること全てが当たり前だと日々を過ごしている。


しかし私たちは違う!この世に人として生を受け、人間として生きられるこの現実に甘んじることなく、与えられた役目を全うしようと日々に全力を傾注する。これが私たちの道である。その道とは、易経に「形よりして上なるを道と為し、形よりして下なるを器と為す。」とあるが如く、形の無いもの(形而上)である。すなわち、形となったもの(形而下)はすでに器であって道ではなくなっているのである。
また、老子の第一章には、「語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名そのものではない。名づけえないものが天地の始まりであり、名づけうるものは万物の母である。だから、意図をもたない者が「道」に驚き、意図ある者はそのあらわれた結果しか見れない。この二つは同じものである。これらがあらわれて以来、名を異にする。この同じものは神秘と呼ばれ、神秘から神秘へとあらゆる驚きの入口となる。 (張鐘元著・上野浩道訳『老子の思想』より) 」ということである。私はこの「玄」(神秘)は黒くて観ることができない玄妙なもの、人生そのものと受け取っている。


だからこそ、私たちは人生という暗闇に向かっての航海の羅針盤として、「夢=Dream・躍動=Dynamic・劇的=Dramatic」を掲げ第三企画という人間集団を形成しているのである。ここでいう夢とは、「一寸先は闇」であるとの言葉を「はっきりと見えないさま」と解釈し、だからこそ「想い通りの日々を過ごすために、この世に人として生まれてきた」と人生を位置づけている。しかし、このままでは単なる我が侭となるので、歯止めとして「人の前に明かりを灯す」との理念を掲げているのである。


ここから第三企画流の「社員第一主義」が生まれ、明かりを灯しゆく社員の総和としての第三企画の社業があるのである。形而上の第三企画の理念と、形而下の社業を為す第三企画という器、この二つは老子の言葉にもあるように名は異にするが同じものである。これこそが社会的責任といわれているものの姿と確信している。このように、私たちが生きている世間は、見えない精神は見える形となってあらわれてくるという厳しい因果律の世なのである。だからこそ、社会という舞台で自分ならではの人生を演ずるのである。今年もこの道を力強く歩み続ける第三企画であることを、気持ちも新たに誓う次第。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 288号(2009)

近説遠来

お客様の気持ちを第一に考える
「近きもの」=お客様あっての経営



論語に「近き者説(よろこ)べば、遠き者来たらん」とある。この言葉は、孔子が楚の国の葉公から「国を善く治める決め手は」との質問に対して答えたものである。「楚の国の人々が喜ぶような政治をすれば、遠い国々の人々が集まってくる。人が増えれば産業も盛んになり国も民衆も豊かになる。悪人も少なくなり国は善く治まる。」と私なりに理解している。


ところで、よく世間(経営学)では、経営資源といえばヒト・モノ・カネ・情報だという。果たしてそうであろうか?それでは人がいて、モノがあって、お金があり、情報があれば会社は経営されていくのか?私は経営資源を並べてみても大切なものは何も見えてこない、と考える。なぜなら会社経営は、お客様あっての行為と信じるからである。極論すれば、一人の人間であるお客様と一人の人間である社員=社長とから始まるのである。
私の経営する第三企画にとって一番の「近き者」は、お客様である。「遠き者」とは、まだ取引をしていただいていないお客様である。経営のすべてはお客様の「ありがたいと思いつつ受け入れる」という行為から始まる。そして、引き続き、会社の成長・発展のすべてを担ってくださるのもお客様なのである。


そのお客様は、喜怒哀楽の日々を生きている人間である。だからこそ、人の気持ちが何よりも優先されるべき大切なものなのだと、私は声を大にして言いたい。「高いから買わない!」「やすいから使う!」「よい商品だから買う!」「便利なサービスだから利用する!」と言い切れるだろうか?これらの判断基準だけではなく、ここにお客様の感情が加わり入ってくる。だからこそ、「高いけど買う!」「不便だけど利用する!」という一見逆の行為が現実のビジネスの世界には起こるのである。だからこそ私は、お客様の気持ちを第一に考える。極論で、一人のお客様と一人の社長、私とで取引が始まると言った。しかし、実際はお客様がまず始めに当社とコンタクトするのは社員の面々であって、社長の私ではない。
だからこそ、第三企画はお客様のところへお伺いする社員を第一にする。私たちを生かして下さるお客様だからこそ、会社を運営する毎月の経費をご負担下さるお客様だからこそ、また「近き者に説(よろこ)んでいただく」からこそ、である。これがご利用下さるお客様への当社流の感謝の気持ち。だから今日も、社員のために全力を尽くす一日を生きるのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 289号(2009)

戦後最大の危機的状況

「人格より金銭」の社会こそ危機
ビジネスは人格の触れ合う場



平成21年2月16日の内閣府発表による速報値では、昨年10-12月期のGDPは、年率換算でマイナス12.7%となっている。これは第一次オイルショック後の1974年1-3月期のマイナス13.1%に次ぐ下落幅という。それだけでなく、今年1-3月期のGDPの伸び率においてもマイナスが避けられないとの見方となっている。「自分の存在感を示すこと」(小心者の特長)に躍起になっている麻生総理の行動がチェンジしない限り、戦後初の4四半期連続のマイナス成長は免れないだろう。


世間を騒がせている派遣切り・リストラ問題は、身近な家庭のやりくりを直撃することとなる。これは即、消費の冷え込みとなり更なる経済の悪化をもたらすこととなる。この下り坂の世相になると当然にして守りに入らざる得なくなってくる。しかし何事もそうであるが、登りより下りが難しいものである。登山のプロは、下山するときにこそリスクが潜んでいることをよく知っていて、ペース配分や方向性について細心の注意を払うではないか。いま、まさに企業では、膨れた規模に合う売り上げを作るのにやっきになっている。また家庭においても、膨れた生活レベルの維持が難しくなってきている。そんな時、どう動いていくかが問われる。動き方は、出来事の捉え方であり、見方であり、考え方である。そして、これらは一人の人間によって成されているということ、それによって将来が決定するのである。


いまや、企業でも家庭でも「金銭」が思考の中心になってやしまいか。人格あるお客様を、売上高の数字と見てはいないか。そしてその量によってお客様を評価してはいないか。上は政治の世界、企業から、下は家庭そして個人まで、このような見方・考え方をもとに動いていないか。このような見方・考え方で現実に動くことになれば、経済の混乱の度は増すことすれ、収まることはあり得ないだろう。
この点においてこそ「戦後最大の危機的状況」だと痛感している。こんな現代社会だからこそ、第三企画は、ビジネスを人格ある人と接しゆく人間関係業と捉え、それに徹し、日々全力で生きている。お客様という人格ある人に接する姿勢を堅持するからこそ、自らも人格ある人に見られる。それが人間社会だと信ずるのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 290号(2009)

時間価値と成功観

100年に一度の経済危機から学んだもの
得た時間は向上に振り向ける



私は、100年に一度といわれている経済危機的状況というのは、現代社会における「時間価値の変化」によって引き起こされた個々人における「幸福観の変化」によってもたらされたものだと理解している。従来の時間価値は、それに伴う成果の量によって裏付けることができた。いわゆる、時間×単価の計算式である。社会構造そのものが、時間を基準とした仕組みをもとに作られていた。そんな世界だからこそ、時間をかけた分だけ生産があがるという論理が成り立つ。これらは現実に存在するモノを中心としているので、ある意味において人間が時間に縛られるという現象も生み出すことになった。チャップリンの「モダンタイムス」である。


チャップリンは、20世紀を市場経済・資本主義による光と影で表現した。いわゆる、モノを中心とした経済、需要と供給を通じて需給調節と価格調節を行う経済、このモノと時間を中心とした市場を重視する結果、人間が犠牲となってしまう経済体制を風刺したのである。人間が生きるということ、それは「生産と消費」の継続でなければならない。人間の判断力・行動力に見合う生産活動であり、消費活動でなければならない。このどちらのテンポが速すぎても遅すぎても不幸になってしまう。それが人間という生き物である。このアンバランスによる不幸を予感し警告を鳴らしたのがチャップリンであった。
一方、20世紀後半に爆発した情報革命は、21世紀型の金銭市場経済を創出した。この情報革命による金銭市場では、今までの時間価値は全く通用しなくなったのである。当然、そこで生きる人達の幸福感も全く違ったものにしまった。その市場経済、金さえ手に入ればという極めつけ、それがレバレッジ効果を最大限活用したサブプライムローンである。レバレッジというモノという実態を伴わない虚構市場が創出したゴール、それが100年に一度の経済危機といわれているものの実態である。


戦後、われわれが範としてきたアメリ型経済は、スピード・効率・倹約を追い求めてきた。ところで、移動時間を短縮するのは、何のため?情報伝達時間を短縮するは、何のため?かける時間は短く、時間当たりの量は拡大、しかも小人数、この体制は誰のためなのか?われわれはことのほか、せかされてきた、急がされてきた、虚構の市場の中で。さあここで、100年に一度の経済危機がおこり、日常の生き方に多くの警鐘となった。この経済危機を教訓として、第三企画は、より早く、より無駄なく、より正確にと活動し、そこで得た時間を、家庭、学修、仕事の三つの向上に振り向けることに貢献するのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 291号(2009)

桜の生き様に倣う

見るもよし、見ざるもよし
されど我は咲くなりという経営



今年も桜が通り過ぎていった。私たち日本人にことのほかいろいろな感情を引き起こさせる花、桜。江戸時代のはじめの頃には、散り際があっという間の桜を武士は好まなかったという。その武士も、太平の世の中「花は桜木、人は武士」といわれるようになって桜嫌いも消えたと言われている。更に後世になると武士道は桜を愛す日本人の心から生まれたとまで言われるようになった。日本人は桜を見て人間の生きざまを重ねる。


人間がこの世に生を持ったその時から、誰もが「生きたい」との欲望を持っている。それは全ての赤ちゃんが生まれてすぐにお乳を飲み、腹が空くと泣き出すことから始まる。また、誰もが「一人では生きたくない」との欲望を持っている。全ての赤ちゃんが、お母さんがいなくなったとたんに泣き出す。常に誰かにいてもらいたいとの強い想いがある。そして何事においても「知りたい」との欲望を持っている。手に触るもの、次第に見え出す周りの情景を手で触れ、口に入れて知ろうとする。次の段階ではお母さんへの質問責めとなる。これらは赤ちゃんに見られる本能的行動である。
「生きたい」から誰もが家に帰る。それは無償の愛で接してくれる母親がいるからである。「一人では生きたくない」から仲間をつくる。ところがその仲間については、「善悪は友による」とも、「その子を知らざればその友を視よ(荀子)」とも言われている。また、生きている限り誰もが「知りたい」との欲望を持っている。そして希望に胸を膨らませて入社する。無償の愛で育った人が、どんな人達と仲間になり、何を知ろうとするのか?誰からも愛される赤ちゃんが大人になったとき、なぜ変化してしまうのか?


会社はこの本能的な求めに応えているだろうか。そんな思いから第三企画は、上記の三つの本能を満たせるために、幸福の創造、文化の創造、仕事の創造という三つの価値創造に力を入れるのである。家庭を、両親を大切にしよう、仕事を第一義とするのではなく、仲間を第一義としよう、そして社会の中から本当に必要なモノを知るために、選別の基準を強化しよう、ということである。「一人の成長する姿をもって人の前に明かりを灯す」という理念がその根っこにある。桜の木は、ほんの一時の花を咲かせる春のために、一年の間どんな誘惑にも負けずじっと耐え忍び、侮辱、屈辱にも耐え、愚痴・不平・不満・文句・言い訳をしない。そして桜花爛漫となったあかつきには見事に散っていく。この生きざまは「見るもよし、見ざるもよし、されど我は咲くなり」との第三企画の生きざまであり、その根本を武士道と重ねているのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 292号(2009)

生への意欲

失敗しても失敗してもかまわず前進
宿命と捉えず 運命を切り拓く



花壇にわれ先にと咲く花があれば、通りすがりの道端にも力強く咲く花がある。それぞれが、それぞれの色を輝かせながら、我こそはと咲いている。どれを見ても鮮やかな色である。人知では計り知れない、考えれば考えるほど不思議で仕方ないほどの色を見せてくれる。安らぎと勇気を与えてくれるありがたい存在である。そんな花たちにも好き嫌いがある。寒いところが好きな花があれば、暖かいところが好きな花もある。そうかと思えば、朝が好きな花もあれば夜が好きな花もある。これらの現象を見るにつけ、花たちの生への意欲の存在を認めざるえない。


人間界における意欲とは、「物事を積極的にしようとする気持ち」である。であるなら草花たちの様々な現実に表れた事象は、花たちの意欲の出方としての現象である。まさに、大きな花があれば小さな花があるように、また、花の形態に見てとれるように熱帯・寒帯によって花の持つ意欲の出方が違ってきているのである。動物の世界においても然りである。肉食動物がいると思えば、草食動物がいる。人間においても然り。甘いものが好きな人がいると思えば、辛いものでなければ食べ物に非ずと言うほどの辛いもの好きもいる。
そもそも私たち人間には、知識と感情と記憶がある。これらから意欲が生れてくる。花たちは、生きていくための意欲は生まれたときから備わっている。それに対して私たち人間の意欲は後天的なものである。日々の生活により身につけてきたものが、意欲と形を変え、その人となりを形成してきているのである。


私たち人間には、四種類の人間がいる。(一)それは無理だと考える人。(ニ)すればよかったと考える人。(三)そのうちすると考える人。(四)して良かったと考える人。そしてこの人生を、この命を「宿命」と捉える人もいれば、「運命」と捉える人もいる。前者の考える人の人生は、それまで生きてきた呪縛により以後は消化試合的な日々として生きることとなる。それに引き換え後者は、今までは今まで、これからはこれからといった「命を運ぶ」創造的な日々を生きることとなる。
私たち第三企画は、今がどうであれ「一回しかない人生」を楽しく生きるために、社業を通して「失敗しても、失敗しても、かまわず前進」の意気込みを沸き立たせている。どれほど追い詰められても諦めることなく、過去に流されることなく、今まで以上の新たな意欲が湧き出でるまで本気で自分と闘う、そういう日々を過ごしている。このようなマドル・スルーの姿勢が第三企画の生き様である。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 293号(2009)

RBAは前向きに生きる大きな流れ

21年目、さらなるRBA野球道を


今年で21年目を迎えることとなったRBA(Real estate Baseball Association)。皆様方の真心と叱咤激励を頂き、頂けたご指導を全力で実践する中、気がつけば21年目となりました。周りからのご指導をいただき、それを指針とさせていただけからこその20年間です。皆様方に衷心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。これからも今まで以上に人生を賭けて運営を担当させていただきます。どうぞ宜しくお願いいたします。


そもそもRBAとは、日本名を「日本不動産野球連盟」といい、発足時から「RBAは、どこまでも人間と現実社会に根を下ろし、情熱をもってこれを改めていこう」とする運動であった。この運動の目的は、行動自体を目的としているので、必ずしも成功という結果を求めているのではない。すなわちRBAは、「良心と道理を旨とし、ただ、ただ、実践に徹しゆく運動体である」と定めた。その行動の目指すところは、①業界で働く人々の成長と健康と、その家族の幸せ、②業界の親睦と繁栄と発展、③国際親善への貢献である。21年前に、三井不動産、三菱地所、東急不動産、ケンコーポレーションを幹事会社として発足したRBAは、今や、中華人民共和国駐日本国大使館、在京タイ王国大使館、駐日モンゴル国大使館など海外の諸機関の協力をも得ながら、お陰さまで着実に発展している。


RBAが発足したのが平成元年、ちょうど東京ドームがオープンしたばかりで不動産業界の高揚期だった。この運動の証しとして「RBA速報」が発刊され、それが現在の「RBAタイムズ」に成長したのである。「正しい言葉」、「嘘が蔓延する社会を変えていく言葉」、「人々に希望を与えていく言葉」を世の中に流しゆきたいという強い思いがあり、そして、『よき人』、『よき模範』、『よき人生』の体現者を発掘、宣揚したいという使命感をもってRBAタイムズを発行した。手で触れ目で見ることが出来るように「具体的な誠」にするのがRBAの役目であり、それを言論面において実践するのがRBAタイムズである。


私たちは、天からの授かりものとして生を受け、この世に存在している。だから人生において肉体上の耐久力、自己制御能力、持続する意思、説得力、知性の五つが大事である。この五つが発現することで、挑戦する生き方、他人を客観的に見ると同時に人間的に見る生き方、他人を不安にさせない生き方が実現する。だからこそRBAが提供する、野球大会という場に意義がある。RBA野球道と呼ぶのがこれである。野球を通じて五つの資質を伸ばす努力を惜しまない選手の皆様方がRBAの活動に触れ、それによって、「前向きに生きる大きな流れの中にいる」ということを実感いただければ幸いである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 294号(2009)

家訓と企業理念

価値観を部下と共有する経営
企業理念を知る努力を促す



会社は社長の力量によって成長するとの考えを教えられ、今まで頑張ってきた。もちろん勉強もしてきた。しかし何か釈然としないものを払拭できないままでいた。しかし最近になって、何やらおぼろげながらではあるが、新たな考えが芽生えだしてきた。結論からいうと、「会社の成長は社長の力にもよるものはもちろんのこと、最大の要件は構成メンバーにある」ということである。「上司は部下を理解するのに三年かかるが、部下は上司を三日で判断する」との言葉がある。この言葉をもって単純に計算することはできないが、世間に広く認知されている言葉だけに、部下の能力が365倍勝っていることに驚きを隠せない。先述の結論にでてくる構成メンバーとは、ここにでてくるような部下の存在のことである。


さて私たち人間が日々生きていくためには、数しれず判断をしなければならないが、それぞれの判断の基にはその人の価値観がある。ここでいう価値観とは、「生きていく上において物質的に、精神的に何を大事にするのか?」ということである。この価値観が、人生における判断局面の信号機となるもので、何よりも重要な位置を占めるものである。家族でいえば、家訓が価値観である。家訓といわないまでも、ご両親の価値観をこどもが共有していなければ家族はバラバラとなってしまう。会社でいえば、「企業理念」が会社を構成するメンバーの価値観に他ならない。そうでなければ企業は目的を果たすことはできない。


もし、価値観(理念)の共有がなされていないと、各人がそれぞれの主観で物事を判断することを許し合っているということになる。まさに会社においても私生活においても、「金(主観)の切れ目が縁の切れ目」といった関係性となる。価値観の共有がないと、いきなりの恋人関係の破局・離婚、または、いきなりの退社、困窮したときの退社、誘いによる退社等になりかねない。(破局、離婚、退社など、事柄そのものの是非をいっているわけではないので念のため)
生きるということが、知るということであるだけに、日々起こる事物を大まかな意味内容と済ませてはならない。メンバーが経営活動に参加するということは、メンバーが正しく企業の価値観=企業理念を知る努力をするように促すことである。これは何があっても怠ってはならない。でなければ、人生をかけて取り組んでいる理念に基づいた経営が、経営者の一人相撲となったり、単なる裸の王様となって物笑いの種となりかねないからである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 295号(2009)

表と裏

100年に一度の経済的チャンス
でも経営は「出てはいけない表」



「表があるから裏がある」とは、母からよく聞かされてきた言葉である。表と裏の関係は、「優しさがあるからと厳しさがある」、「ピンチがあるからチャンスがある」というように置き換えることもできる。今の現実に当てはめると、「100年に一度の経済危機とは100年に一度の経済的チャンス」ということになる。最近になって周りから「第三企画さん、大丈夫ですか?」とよく聞かれる。それはごく当たり前だといえよう。今の世間では、不動産業界と広告業界とソフト開発業界は不況三大業界と言われているくらいであるからして、第三企画はそのうちの二つが当てはまるとすれば、当然過ぎるくらいの疑問である。私が相手であってもそう聞くだろう。
その時に私は必ずこう口にする。「100年に一度のチャンスの真っ最中です。」現に第三企画は、100年に一度のチャンスに嬉々として立ち向かっている。こういう環境だからこそ、普段では二の足を踏む大胆な改革もできるし、将来性豊かな優秀な新卒もたくさん集まってくる。考えてみても信じられないタイミングである。100年に一度しか廻ってこないようなこの時期に、成熟した社会人として働ける年齢で生きている。最高の幸せである。この舞台に立てるという幸せを、無意識のうちに自覚している自分に驚き、母への感謝の念が心底から込み上げてくる。


こんな時だからこそ前述の「表があるから裏がある」を思い出す。というのも、その続きがあり、それが心に引っかかっているからである。「表だから出ていく、裏だから出ていかない、ではないんだよ。出ていけても我慢する『表』もあれば、出ていきたくなくても出ていかなければならない『表』がある。同様に、出ていきたくても出ていけない『裏』もあれば、行き詰まってにっちもさっちもいかない『裏』もある」と。
この場合における「表」と「裏」の在り方は、それぞれの人が持っているそれぞれ独特の粘着性だというのである。いま100年に一度の経済危機のただなかにあるものの、第三企画の経営は「出て行きたくても出てはいけない表」であって、決して「行き詰まってにっちもさっちもいかない裏」ではないのである。現在の私は「表」ではあるが、相手の「表」と「裏」、そのどちらと共鳴するのかにかかっていると解釈している。
お陰さまで、RBA野球大会は例年のように開催している。しかも、加盟企業・チームは過去最高となっている。この場合は先述と逆で、RBAの活動は「出てはいけない裏であっても、出ていかなければならない裏」なのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 296号(2009)

家族力①

家族の中心は社会的な「大人」の夫婦
六大欲を調整できる家族か?!



家族とは、「夫婦とその血縁関係にある者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団」(大辞泉)である。中心となる夫婦とは「婚姻関係にある男女の一組」である。その婚姻はというと、「男女の継続的な性的結合と経済的協力を伴う同棲関係で、社会的に承認されたもの」である。そして社会的とは、「社会に関係するさま。社会性があるさま」である。現代社会の問題は、家族や家庭にこの社会的な側面、すなわち集団をつくり他人と関わって生活しようとする人間の本能的性質・傾向が、大きく欠如していることなのである。


社会的に承認されるということは、一組の男女の社会性が認められていることが必要条件となる。ゆえに社会問題が起こる多くの場合は、社会的に問題を持つ男女の結婚に原因があるといっても過言ではない。では、社会的に承認されている人とはどんな人なのか?私たちの社会ではその人達を「大人」と表現している。「大人」とは、「成長して一人前になった人」である。
言い換えれば「大人」とは、社会の常識と言われているものからはみ出さないようにして、なおかつ自分自身の欲望を満たしていくことができる人、他人に迷惑をかけない人、社会善と社会悪の判断ができる人である。つまり大人とは、食欲・睡眠欲・性欲・財欲・名誉欲・知識欲の六大欲を制御し統制することができる人間である。周りを意識しながら時と場所に応じてうまく調整する人こそ大人といえる。
そしてこの六大欲の「強弱」と「組み合わせ」がその人の個性をつくり、形となって私たちの眼前に現れているものである。結婚とは、その六大欲の組み合わせが掛け算的に増えていくことが期待されている社会的仕組みなのである。その生活形態である家族は、夫婦がどのように欲を調整しているかという実験・証明の場である。その六大欲の調整の仕方によって、喜びも充実感も心の豊かさも違ってくる。


家族の原点となるのは夫婦であるが、それを形成する男女の基本的役割は、古今東西、男性が物質面において未来に宝を残すことであり、女性は協調性ある有為な人材を世に送り出すことである。この一点が定まっているか否かが、家族の力が幸福へ向かうか、不幸へ向かうかを決定させることになる。その方向性が、今現在の家族の関係性となり、家庭という生活の場となり、それが家族力をつくっていくのである。そしてこの家族力は、「このような子供を育てたい」との両親の意識・思いを飛び越え、六大欲の調整の結果通りに、育っていくのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 297号(2009)

家族力②

一人の人間にみる六大欲と個性
六大欲の共鳴、増幅が生む家族力



前号で、家族の中心は社会的な「大人」の夫婦であって、食欲・睡眠欲・性欲・財欲・名誉欲・知識欲といった六大欲を制御することができる人間でなければならない、といった。今回は、この六大欲がその人の個性をつくることについて述べよう。


私たちに備わる個性について辞書には、「個人を特徴付けている性質・性格。その人固有の特性」とある。性質とは、その人に生まれつき備わっている気質であり、性格とはその人が生まれつき持っている感情(主観的な心の動き判断=快い・不満だ。美しい・感じ悪い等)や意志(自身が目的的行動を生起しそれを持続させる心の強さ)である。さて、この個性の説明にでてくる「性質」「性格」「特性」という言葉のすべてに付いている「性」に字についてである。「心が立って生きる」と書くこの字は、「生まれつき持っている心の働きの特徴」であり「人や物に備わる本質・傾向」と辞書にあるごとく、人間が動くとき、すなわち生きる瞬間(生命活動)に出会い・触れ合うものすべてに対する「個々人の反応の仕方」をあらわしている。すなわち性質・性格とは、立って活動する無形の心(一人の人間)が、その生活空間において出会い触れ合う現実において、その都度反応しながらも、一定の反応における法則性(傾向性=行為)を現してくる現象を総じて言い表している。
その個々人の反応の仕方、それに「質」があり「格」があるのである。個々人の反応を、人間社会全体にとって有益か否かで区別したものが品位・品格という価値判断である。「品」という四角い形を三つ(ここでは人間と解釈する)並べて書いた漢字は、三つを比較検討し順位をつけ評価する言葉である。また、「格」は、こつんとつかえるかたいしん棒を表す言葉であり、人に当てはめれば、しんにもつ本質のことである。


私たちが目にできる現象からあらわになる個々人の個性は、その人さえ自覚することがなかった「自分」がいきなり顔をだした姿である。もちろんそれは私たちを動かしている六大欲が基である。その六大欲の強弱と組み合わせにより織りなされる動態の一面が個性となって表れ、「その人らしさ」といわれるものとなる。
私たちの一大イベントたる結婚とは、格と格との触れ合いであり、こつんとつかえるかたいしん棒にお互いが積極的に感応し合うことである。言い換えれば、結婚は男女の六大欲の共鳴であり、結婚生活とは六大欲の増幅を目指すものである。この六大欲のベクトルと増幅の度合いが、その集団すなわち家族の力の源なのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 298号(2009)

家族力③

分かった「人間の条件」前頭前野
六大欲の調整は手つかずの時代



六大欲の制御について興味ある出来事がある。それは1848年、米国ヴァーモント州で起こったある鉄道工事事故である。この事故が人類史に新たな「人間の条件」をもたらしたのである。フィネアス・ゲイジ氏は鉄道工事現場監督であった。その事故は、爆風で飛ばされた長さ30センチの鉄棒が、ゲイジ氏の前頭葉を直撃貫通するというものであった。ゲイジ氏は一命を取り留めたものの、この事故で前頭葉の先端部分である前頭前野のほとんどを失ったのである。病院での彼は事故の重大さをよそに、これといった機能障害もなく順調に回復していた。いわゆる普通の正常な人間として復帰したのである。


しかしである。職場仲間はびっくりした。現場監督を務めるほど責任感の強い優秀な働き者であったゲイジ氏は、どこかに行ってしまった。眼前にいるゲイジ氏は、卑猥で、自己中心的で、すぐに切れ、いざという時にも関わらずなに一つの決断もできない、悪意に満ちた、どうしようもない、全く別人といっても言い過ぎでない人物となっていた。この事故を機に、前頭前野の役割が明らかになったのである。事故後のゲイジ氏のごとく「卑猥で、自己中心的で、すぐに切れる、決断ができない、悪意に満ちている」のは、ヒトとしての本能そのままの振る舞いをする、六大欲の制御が利かない人間である。理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ思考能力の機能、それが前頭前野の役割であった。
そもそも生きものは、食欲、性欲、睡眠欲に基づく本能的振る舞いで、外部からのエネルギーを取り入れ、自己を維持・発展させる、「環境に開かれた存在」である。その環境適応能力は、大小の差こそあれすべての生き物に与えられている。それに加えて、人間が社会的な動物であるがゆえに、私たちには財欲、名誉欲が加わり五大欲に振り回されることになるのである。人間はまさに、五大欲で生きているといっても過言ではない。コメディアン植木等のいう「わかっちゃいるけど止められない」である。


そんな私たちは、わずかに知識欲によって五大欲を制御・調整する術を解き明かそうとしてきた。「人間の条件」たる前頭前野の役割を解明してきたのはこの知識欲によるものである。ところがこの知識欲も統制・制御しなければならない対象なのである。原子力の研究がそうであったし、ヒトゲノムの解読や遺伝子操作も知識欲の欲するままにしていいのか疑問がつきまとう。知識欲は成果となって現代文明を形作ってきた。がしかし、知識欲を加えた六大欲の調整においては全くと言っていいほど手つかずである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 299号(2009)

家族力④

六大欲を制御・統合する知恵
家族の幸せは知恵力を高める事



誰もが職場で経験することであるが、自分自身をそのまま認められたいとの欲求と、周りの人達の視線に自分をさらす恐怖との間のジレンマに陥ることがある。これも一つの知識欲の産物といえるものであるが、この場合においては知識欲による統合は成されていない。私たちの日常に目を転じると、人は幸せを目指して、社会に評価されたいと成功を望み、自分中心に好きなことがしたいと願いながら生きている。いわゆる生きるということは、こうありたいという欲望とこうあるべきだという願望の狭間でもがくということである。それは、相手の意向を汲みながら自己を主張するという、謙虚さとわがままの二律背反の日々といっても過言ではない。


鳩山首相は所信表明で「人間の究極の幸せとして、①愛されること、②誉められること、③役に立つこと、④必要とされること」と述べた。これを達成するための条件は、食欲・性欲・睡眠欲・財欲・名誉欲の五大欲を強力に統合できる知識欲がもたらしてくれる。この場合の知識欲とは、ヒトゲノムの解析や遺伝子操作技術の開発や原子力の研究開発等にみられる最先端の知識を追求しようとする原動力であり、それが日常生活(生命活動)に現れてくるものと捉えることができる。
この知識欲を、昇華させ、制御・統合させた働きを持つもうひとつの知識欲の姿が「知恵」である。制御・統合とは、人類の幸せと繁栄の為に、感情をコントロールし、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ思考能力を発揮する人間性そのものである。この「知恵」が六大欲を制御・統合する前頭前野の持つ真の実体であろう。


であるなら社会の最小単位である家族における六大欲の調整(制御・統合)とは、家族の幸せと一家の繁栄のために感情をコントロールし、家族を敬い、優しさをもって、責任感のある、決断力に富んだ思考能力、すなわち「知恵」を発揮することである。そして個人における「知恵」とは、「日々の生活において、鏡を通して自らの姿(表情・身なり)を省み整えること。学びを通じ人類の過去の歴史と同じ過ちを繰り返さないこと。そして、日常において模範となる人、注意を施してくれる人の意見を素直に取り入れ自らを正すこと。」である。
家族力とは、夫婦の知恵力である。この力が家族間の人間模様を織りなす核であり源である。そして知恵力が家族の格を形作る。いわゆる幸・不幸は、家族における知恵力のバロメーターであるゆえ、不幸だと思うならば知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 300号(2009)

家族力⑤

執着や煩悩を取り去るのが知慧
知恵は自利と他利を融合させる



前号で家族力とは、夫婦の知恵力であると書いた。知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである。この知恵とは何なのか、明らかにしておかなければならない。知恵には、知恵と智慧の二つがある。日常で使われている「知恵」は、「物事の道理を判断していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力」である。もう一つの「智慧」とは東洋三大哲学の一つである仏教語としての「智慧」である。意味するものとしては、「相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧」をもって、「物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力」 (大辞泉)である。


華厳経では、「智」は因果、順逆、染浄などの差別を決断する作用であるといって「智」を決断作用とし、「慧」は諸法の仮実、体性の有無などを照達することであるとして、疑心を断じ、しかも事物そのものを体験的に知ることである、としている。知恵という言葉を日常使っているが、その言葉の背景にはこのような仏教語の智慧があるのである。総じて智慧は、物事を正しく判断することであって、悟り(正しい考え・行動)に至る方途であり、正しく物事を認識し、判断する能力である。これによって執着や愛憎などの煩悩を消滅させることができるといえよう。


ところで「智」には、分別智と無分別智という分け方がある。分別智とは、「私たちが普通にものを認識し理解する能力」である。この能力は、常に有無・善悪・是非などの対立概念で分析・区別して分別(判断)するので差別智とも言われ、その判断の基準は自分中心の心(我執)である。もう一つの無分別智は、我執の煩悩である分別を取り去って、ものの在り方を正しく見る能力である。蛇足ながら、「分別がある」「分別がない」という使い方とは意味合いが異なる。
言い方を変えると、分別智は知識に基づく判断、自利の判断であり、無分別智は智慧に基づく判断である。自利と他利を区分せず、融合したものが智慧なのである。私たちの知識とは、客観的に物の何であるかを分析して知る分析知。このような知識を克服して、それを実践智に深め、物の真相に体達するというエネルギーまで深めた場合のことを知恵という。大学受験で評価されるのは知識であって、社会人となったビジネスの世界で評価され、成果が見えてくるのは知恵であるといったら、両者の違いは明確になるだろう。知識の積み増しだけにベクトルが向き、目を奪われている家族が、果たして幸せを手にすることができるだろうか。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 301号(2009)

家族力⑥

智慧の階段を上がるための家族力
今は聞慧、思慧、修慧のどの段階?



前回に「知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである」と書いた。分別智と無分別智など、知恵の区分けも説明した。つまるところ、知恵(智慧)の分別智は無分別智に包含されてこそ智慧となる。つまり知恵力とは、包含する力だ。問題は、この包含する力の増大をどう身につけるかである。では、知恵力を高めるために何をすれば良いだろうか。

中国哲学の孟子は、生活と智慧の関係を三段階に分けた。これを安岡正篤氏が分かりやすく説明している。『「所欲的」生活(欲に駆られてする生活)から、「所楽的」生活(楽しみを求めてする生活)、「所性的」生活(人間の本性、仁・義・礼・智・信を自然に発する生活)へと到達するにつれて、見聞きした智慧(単なる理解力)から段々真実の智慧が磨きだされる』と。
さらに安岡氏は『仏教にも「聞」、「思」、「修」と「慧」を区別する』と仏語の三慧を持ち出して、孟子の考え方との類似性を述べている。「聞慧」とは聞くこと、「思慧」とは考えること、そして「修慧」とは実践すること。この三慧とは、智慧を得る道である。古歌に、「耳にきき、心におもい、身に修せば、いつか菩提(悟り)に 入相(いりあい)の鐘」といわれてもいる通りである。孟子の区分けをくだけて表現すれば、「欲しがり、手にし、使いこなす」であって、三彗と符合するのだ。


このような区分けを念頭において、現在を省みるとどうなるか。職場では目先の数字をあげるため、道具探しと技術探しに奔走する日々である。よく目にする「ツール」「スキル」といった類のものである。教育においても、記憶力を優先した小手先のハウツーものに関心を示す。それが現状である。まさに、「追い求め」・「耳にきき」・「思いつき」で物事をすまそうとする文化に侵されてしまった「所欲的」生活の姿が、ここにある。数字化された目標に追いまくられる日々、自分を支えるための物品の所有に奔走する日々が、ここにある。

智恵力とは、所欲=所有への行動から、所楽=利用への行動に移り、所性=本来の自分へ向けた行動に向かって前進する力と言えよう。換言すれば、聞慧=聞きに向かう行動から、思慧=思い考える行動へ、そして修慧=日常に展開する行動へと前進させる力と言えよう。すなわち家族力とは、夫婦間における会話の段階が三慧のどの慧に属しているのかという認識から始まって、共々に協力して、一段あげる努力をする力のことである。次回はこの協力する力について考えてみる。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 302号(2009)

家族力⑦

第一子誕生は夫婦の一大変換点
協力と対話、どの次元のひと時か



結婚生活は、生まれも育ちも違う男女が共同生活を営むことである。その夫婦にとって、間違いなく重大で、最大の出来事は最初の子どもの出産である。第一子誕生は夫婦の変換点でもある。夫婦はその第一子の育成、教育について多くの選択肢に直面する。この選択肢を通して、若い夫婦は自分たちなりの家族を作りあげていくのである。


子どもにはどのような人間になってほしいのか、そのために、何をすべきか、何を避けるべきか、それぞれの設問にいくつもの選択肢が生まれる。お稽古事ひとつをとっても選択肢の多さに迷う。子をもつ親なら誰しも経験したことだろう。お稽古事はいくらでもある。人気ベスト3といわれるスイミング、英語・英会話、ピアノ・エレクトーンをはじめ、スポーツ系、文化系、学習系、いろいろある。どれをやらせるのか、一つだけか、二つも三つも習わせるのか、それとも習い事から子どもを解放するか。


夫婦が抱える諸般の事情で、習い事はさせられないと決めつけてしまう生き方がある。この場合の対話は「仕方ない」から始まる。一方、自分と子どもの双方の状況に判断基準を置いた対話は、諸般の事情を通過すべき難関と見る生き方、妥協点を探り出す生き方である。さらに上の次元の対話は、自分の人生と子どもの人生を鑑みた判断を模索する生き方、社会の中に生きる一人として、どう在るべきかを問う生き方である。


第一子誕生は、実は自分たちが生きてきた人生の総点検の機会でもある。単なる夫婦の共同生活から家族へ、その変換点が、第一子誕生のその時である。夫婦はここで生まれ変わらなければならない。それを、今までの延長線上と捉え、子どもに夢を託すような生き方をすれば、行き着く先は所欲的生活(欲に駆られてする生活︱前号ご参照)から導き出される結末への転落である。
わが子を抱きかかえるその時、夫婦は、膝を突き合わせ、今までの生き方(自分史)に耳を傾け、反省する「ひと時」を持てるか、どうか?そこから更に、自らの人生へと思いを広げていく「ひと時」とすることができるか?その時をきっかけとして、新たな日々へ、自らを変革していけるか、どうか・・・?夫婦が協力して持つこの「ひと時」が、家族力向上の差となる。

協力というからには目的が欠かせない。お互い、共通の目的に向かうところに対話が生まれてくる。この対話にこそ、力を合わせ向かうべきゴールへの道筋が隠されている。協力する力は、目的とする次元に比例して湧き上がってくるものである。あなたは家族とどの次元の「ひと時」を持ちますか?


 

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  • 引用 RBAタイムズ 303号(2010)

家族力⑧

親が本当の親になれるか
自我の成長の第三段階「親心」



物事には必ず二面性がある。子どもの誕生の場合においても然りである。私たちの人生における子どもの誕生という出来事は、一方では親を誕生させることでもある。親となる夫婦は、これまでの人生で遭遇した出来事、進路決定を始めとして結婚、趣味等々、ほとんどの場合において、自分を中心に決めてきた。その固く、壊れそうもない、その人らしい生き方が、180度変わり始める起点となるのが、子どもの誕生なのである。


子どもの誕生は、今までの人間関係が愛憎・損得・善悪という自分中心の価値観に基づいていたのに対し、無償の愛・利他・容認という一体感的価値観へと変わっていく瞬間となる。それは同時に、女性が妻になった結婚という瞬間をへて、更に母親を兼ねなければならなくなる時であり、夫になった男性が父親の立場を兼ねる時でもある。


この出来事を、単に、子どもの誕生によって家族構成員が一人増えたとみる現象として捉えてはいけない。その見方では、前回、「夫婦は子ども誕生のその時、協力し合いながら今までの生き方に耳を傾け省みることが家族力向上となる」と述べた「耳を傾けて省みること」にならない。子どもは、夫婦とは全く別の、一個の人格を持っている人間である。決して夫婦の所有物ではない。この一点を勘違いしてしまうと、子どもに夢を託す的な生き方となってしまうのだ。あるいは、泣き喚いてうるさくて言うことを聞かないからといって、目に余る折檻をして平気でいる親となってしまうのだ。


私たちは、幼少の頃と青年期の二回、自我意識の芽生えを経験している。反抗期といわれているものは、その最たる変化の兆しである。この反抗期を経て人間は成長する。ところが、実は、反抗期に匹敵する自我の大きな発達時期が大人になっても訪れる。それが、結婚と子どもが誕生するその時、なのである。それは、「子ども心」から「恋心」になり「親心」となってゆく人間の成長過程である。
この大人になってからの成長過程が成熟しないまま、単なる子どもの親となると、自らは「親」を誕生させていないので、食事を与えず餓死させたり、折檻を繰り返して死にいたらしめる犯罪者に転落することになり、それを食い止める歯止めを失ってしまうのだ。


このように子供の誕生とともに、夫婦が自ら「親」を誕生させているかによって、単なる血縁関係という人間の集団としての家族なのか、それとも自らの犠牲も省みないという親子関係の心が通じ合う相乗効果を持つ家族なのか分かたれる。家族力とは「親子の心が通じ合う」相乗効果のことなのである。それはまた現象面として、家族同士が協力という形で私たちの目に映るものである。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 304号(2010)

家族力⑨

ペット飼育と子育て 愛の違い
子育ては親への感謝を表す行為



子どもの誕生とともに、夫婦が自ら「親」を誕生させたか、どうか。それによって、家族力は決定されてしまう。


現代社会では、時には事件の形をもって、親が自らの親を誕生させたかどうかを社会に明らかにしてくれる場合がある。先頃4歳児死体遺棄事件しかり、生後3ヵ月男児虐待殺人未遂事件しかりである。なぜ、このような事件が発生するのか。その原因は何なのか、それが分からなければ、現状の打開は困難である。自らの内に親が誕生していない親であっても、子どもが誕生する時には、五体満足を願う。そして誕生後においては、健康に育つか心配する。長じて学校に行くようになれば、まずは成績に目が行き、勉学を督励し塾通いに熱心になる。体力作りに目が向けば、英才教育を行うのもやぶさかでない。


しかし、子育てはペット飼育と違うのである。自らの内に親を誕生させていない親は、自分に都合のいいように子育てをする。自分の都合が悪くなるようなことがあれば、子育てを放棄する。可愛いから、癒されるからといってペットを飼育していても、大きくなって扱い難くなったから、言うことを聞かなくて手に負えないからといって捨ててしまうペットの飼い主の心境に瓜二つである。ペットへの愛情は、邪魔になったら捨ててしまう行動に表われているように、有償の愛なのだ。
それに引き替え、子育ては、対象となる子どもへの愛情に加えて、自分が親に育ててもらったことに対する感謝の想いに裏打ちされている。我が子を授かったその時に、自分が今在ることに思いを馳せ、自らの両親にどれほど感謝の念を持つことができるのか。その感謝の念こそが自らの内なる親の正体である。この感謝の念を知恩と言い換えれば、自らの内に親を誕生させるか否かの境目となるのは、この知恩である。この知恩があるからこそ、無償の愛が生まれる。眠い目を擦りながらでも深夜に泣き出す子どもをあやすことができるし、ダダをこねて言うことを聞かない子どもに辛抱強く向き合うことができるのである。


現代社会で発生している乳幼児をめぐる事件に戻ろう。この手の事件は未熟な親が起こした事件だと言われている。この未熟さは何なのか。子どもへの愛情が足りない未熟さなのではなく、自分が育ててもらった両親への感謝の念、知恩が足りないから未熟であるのだ。知恩(親の恩を知る)が我が子を育てることによって報恩(親の恩に報いる)になるのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 305号(2010)

家族力⑩

人間として生きていける力の源
「親」に瞬間移動する力こそ家族力



「自分がなぜ生まれてきたのか?」を知る人は誰もいない。ましてや、「生きる意味」となると考えても答えを見つけることは難しいだろう。生きる理由も意味もわからぬままに、なぜ人間は生きていけるのか?結論を先に言えば、それは家族があり、家族力があるからなのだ。


家族は、「両親に子ども3人の5人家族」というように数に表すことができ、目にも見える。「大家族」とか「核家族」という表現もできる。ところが、家族力となると目には見えないし、数字で表現することもできない。ましてや手にとって示すことはできないものである。そういう家族力とはどんなものか。そしてそれが「なぜ人間は生きていけるのか」の回答になるのか。私達は、生まれてきた時に「心から喜んでくれる人に出会うから」、「ただそこにいるだけで喜んでくれる人に出会うから」生きていくことができるのである。これをもたらすのが母親による目に見えない愛、この無形にして強い愛が家族愛であり家族力である。これによって生きられるのである。私達は、誕生の瞬間に無意識のうちに自分が生きる意味を本能的に自覚している。誕生という母親との出会いは、無自覚的に「生きる意味」となり、「生きる価値」となり人格を形成する核となっているのである。


同時に子どもは、その誕生によって夫と妻という男女を「お父さん、お母さん」へと瞬間移動させるのである。もちろん、「お父さん、お母さん」を「おじいちゃん、おばあちゃん」へと瞬間移動もさせるのである。この瞬間移動の力こそ家族力の根源である。子どもの誕生という出来事は、お父さんやお母さんを知恩とか、報恩という愛の世界にいざなうものなのだ。これが、無償の愛の源泉であり、これによって「ただ一人」の人間が生成するのである。いつの場合も、赤子は無償の愛の対象となって誕生するオンリーワンの存在である。両親にとって赤子は、ベットにずらりと並んでいるなかで「あなたでなければダメ」な存在なのだ。つまり、この世に生まれてきた全ての人は、生まれてきたこと自体で既にオンリーワンの存在なのである。「ただ一人」の人の誕生だからこそ、「お父さん、お母さん」はわが子の愛おしさを鮮明に心に焼き付け、「ただ一人」の人だからこそ、わが身を省みることもせず、夜泣きされようが愚図ろうが一生懸命育てるのである。


この無償の愛から育まれる親子の関係から醸成されるのが、敬愛(=尊敬と親しみの気持ち)である。
この敬愛こそ家族力のもう一つの姿といえるものである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 307号(2010)

家族力⑪

思い出してみよう!無償の愛
命のリレー 走者のエネルギー源



お母さんが妊娠すると、自分の骨を作るよりも赤ちゃんの骨を作るのを優先する体になるのだそうだ。だから、お母さんはよくカルシウムを摂らないと骨粗鬆症になりやすいともいわれている。自分の骨身を文字通り削って、それでいてちょっとでもお腹が動くと、手を当てて動いた!動いた!といって大喜びする。そんな日々を過ごして迎える臨月、いよいよ十月十日(とつきとうか)で陣痛との戦いが始まる。そして、赤ちゃん誕生。お母さんはこの苦しみとの戦いを終えたすぐ後、生まれた子供を腕に抱え、優しく包み込み、わが子を受けとめるが、その姿には、今までの苦痛や苦労の影も形もない。
生まれたばかりの子どもは、昼夜関係なく、朝な夕なにお乳を欲しがり泣き喚く。小さい歯でお乳を噛んで血がでてしまうこともある。それでも、お母さんは文句ひとつ言わず黙々と赤ちゃんに応える。


少し大きくなるとオネショ。その時お母さんはいくら眠くても、眠い目を擦りながら着替えをさせる。自分が寝ていた乾いた布団に寝かしつけ、自分はオネショの上にタオルを敷いて寝る。朝起きると、オムツや下着の洗濯。どんなに臭くても、汚くても、顔色ひとつ変えず黙々ときれいになるまで洗う。それはオムツがとれるまで続くのだ。
美味しいものは自分より子どもに食べさせる。子どもの好きなものを忘れない。子どもの好物を目にしたら、それがどこであっても、その度に子どものことを思う。着るものもそう、自分が欲しいものを我慢して、子どもにきれいな洋服を用意する。それは子どもが成人しても、壮年になっても続く。それがお母さん。


物に限らない。人間関係においても同じである。どんな悪さをしても、必ず守る。どんな立場の上の人が相手であっても子どものためなら戦う。守る。正義がなくても守る。子どもが病気になれば、「代わってあげられるものなら、代わってあげたい」と口にし、自分が寿命を全うした後のことまで心を配る。それがお母さん。これが無償の愛なのだ。
このように無償の愛によって誕生し、無償の愛によって育まれた私たちは、家族の歴史の最先端に生きることが役目であり、それが自らの一生なのである。まさに人類史という舞台に繰り広げられる命のリレーといえよう。


リレーといえば、毎年私たちを感動の渦に巻き込んでくれる箱根駅伝のたすき渡し。毎年、出場権を獲得するため選手を補強する。しかし私たちの命のリレーは、交代することもできなければ補強することもできない。ゴール無きリレー、どこまで走るかも、どう走るかも最先端を走る私たちにかかっているリレーなのだ。走者は無償の愛をエネルギー源としてひたすら走る。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 309号(2010)