久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

No.05

「中庸・孟子」から学ぶ

「玄関の靴事件」「嘘事件」 の思い出
父の教え「やり始めたら最後までやれ」



『人一能之、己百之、人十能之、己千之。』  【中庸】
『有為者、辟若堀井。堀井九靱、而不及泉、猶為棄井也。』  【孟子】


編集の方から「お母さんに大変薫育されたのですね、ではお父さんついてはどうなのですか?」と問われた。父の教えと言えば「やり始めた事は最後までやれ!できるまでやれ!どこまでもやれ」と、そして決まってその後、「一丈の堀を超えられない者がなんで二丈、三丈の堀を超えられるか?ボケこらっ!」と、幼い頃から言われ続けられたことだろう。この言葉どおりのことを身を以て教えられたのだ。


それは、「玄関の靴事件」である。父が夕方家に帰って来た時、玄関の靴が揃っていなかった場合は容赦なく羽交い締めされ往復ビンタを頂いたものである。それはできるまで続けられた。もうひとつは、「嘘事件」である。家団欒の途中嘘がバレた。僕はすぐに「ごめん」と謝ったのだが、にもかかわらず父の顔は鬼と化していた。叩かれる痛さ、怖さにおびえて裸足のまま外に逃げだした。それからである、やっぱり父は逃げる僕を自転車で追いかけてきた。振り返ると父の姿が迫っている。とっさに僕は、畑に逃げ道を求めた。痛い足を我慢し一目散に走る。しかし父は父である、自転車を乗り棄て走って追いかけてきた。体格の違いは距離を縮めるのにそう時間はかからなかった。見事捕まり、総括されたのである。このように父は自らの行動を持って「やり始めた事は最後までやれ!できるまでやれ!どこまでもやれ!」と恐怖とともに教えてくれたのである。高校4年生の時、退学の道を諦め、恥を忍んで一年間通えたのもこの教えのお陰である。また、大学8年間に繰り返された退学の誘惑に負けずに屈辱の日々を乗り越える事ができたのも、父のこの一言と「人が4年で卒業ができても、お前はできないのだから倍の8年かかっても卒業しろ!学費は心配するな!」との言葉があったればこそである。いま第三企画を経営する日々においても、この二つの言葉はコトある毎に耳元で「ボケこら」と共に聞こえてくる。父の愛により高校・大学と12年間学ばさせて頂いたお陰で、父が学んでいたであろう一文と出会う事ができた。


それは、『人一能之、己百之、人十能之、己千之。』(中庸)「人一たびして之を能すれば、己れ之を百たび、人十たびして之を能くすれば、己れ之を千たびす」(他人が一度でよくするならば、自分はこれを百度する。他人が十度して成し遂げられるならば、自分は千度くり返してそれをする。)そしてもうひとつ、『有為者、辟若堀井。堀井九靱、而不及泉、猶為棄井也。』(孟子)「井を掘ること九靱にして、而も泉に及はざれば、猶お井を棄つと為すなり。」(いくら九靱の深さまで井戸を掘っても、泉のでる所まで掘らなければ、それは井戸を棄てたも同様だ。本当に事をやり抜く人は、井戸なら、水が出るまでは掘ることをやめないものだ。)


そんな父は、昨年他界してしまった。もう叩かれることもない。また、面と向かって教えてもらうこともできない。しかし、きっと父も生前机に向かい同じことを学んでいたんだ、と確信する自分がここにいる。この小さな発見が、今、尊敬する父と同じ行為ができているのでは、という安心感にもなっている。僕の父は、偉大な父であった。乗り越えることのできない大きな存在である。そんな父に出会えて、最高に幸せであった。天に感謝している。そして今日も父の息子として恥じない人生を歩もうと日々決意しながら生きている。

 

 

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  • 引用: RBAタイムズ 259号(2007)