久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

No.17

不易流行の日々①

来る者拒まず去る者追わず!
そして、来る者に希望を 去る者に幸運を!



会社を経営していると、人の心が移り変わることはごく当たり前に経験することである。ある時、そんな生々しい現状を消化できなくて母に相談した。その時の話しで今も覚えている言葉が「去る者追わず」である。


「死生命あり、富貴天に在り(人間の生も死も、はたまた貧富、貴賎も、すべて天命であって、個人がどうすることも出来ないものだ)」(論語)とは、悪い兄をもった司馬牛の嘆きに対して子夏が悟した言葉である。人間は動物の一種、動く生き物である。しかし身体だけではなく、心の状態までもが動き回ってしまうから困ることになる。その「動き回る心の状態」を「気持ち」という。決意する不動の心とは別に、目に接するモノによって変わりゆく心の表れようが気持ちである。宣伝文句ではないが、「分かっちゃいるけど止められない!というねじれ現象。心で固く決めただけに、止められない言い訳をさがす自分の気持ちに腹が立う。誰もが少なからず経験することである。


そんな私たちは手にできないと分かりながらも、お金に囚われ、車に囚われ、地位に囚われ、名誉に囚われ、家族に囚われ、メンツに囚われる。世の中を見渡してみても、経済界の頂点に君臨したにも関わらず、欲に目がくらみ夕立の如く流れ去っていく人が何と多いことか。また最初はやる気満々の意思表示をしながら、年月が経つと自らの言動を翻し、やらないことを正当化する輩(やから)が後を絶たない。流行とは、「一時」的に広く世間に受け入れられることである。その「一時」に沿って動き回るものが私たちの気持ちである。やる気が旺盛の時は良い環境と判断しても、やる気が衰退すると悪い環境だと判断してしまうのが気持ちの動き。その環境は、善悪などないひとつのモノであるにも関わらず、である。このように私たちが生きるということは、あらゆる物事に囚われ追いかけ回すことだといっても過言ではない。しかしどのような人も心は悪くない。ただ動き回る気持ちに振り回されているだけである。「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、「振り回されている気持ちを哀れみ、人を憐れむな」である。今日も不易流行の日々を生きると誓う次第だ。

 

 

追加情報

  • 引用: RBAタイムズ 272号(2008)