久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

No.46

家族力⑤

執着や煩悩を取り去るのが知慧
知恵は自利と他利を融合させる



前号で家族力とは、夫婦の知恵力であると書いた。知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである。この知恵とは何なのか、明らかにしておかなければならない。知恵には、知恵と智慧の二つがある。日常で使われている「知恵」は、「物事の道理を判断していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力」である。もう一つの「智慧」とは東洋三大哲学の一つである仏教語としての「智慧」である。意味するものとしては、「相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧」をもって、「物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力」 (大辞泉)である。


華厳経では、「智」は因果、順逆、染浄などの差別を決断する作用であるといって「智」を決断作用とし、「慧」は諸法の仮実、体性の有無などを照達することであるとして、疑心を断じ、しかも事物そのものを体験的に知ることである、としている。知恵という言葉を日常使っているが、その言葉の背景にはこのような仏教語の智慧があるのである。総じて智慧は、物事を正しく判断することであって、悟り(正しい考え・行動)に至る方途であり、正しく物事を認識し、判断する能力である。これによって執着や愛憎などの煩悩を消滅させることができるといえよう。


ところで「智」には、分別智と無分別智という分け方がある。分別智とは、「私たちが普通にものを認識し理解する能力」である。この能力は、常に有無・善悪・是非などの対立概念で分析・区別して分別(判断)するので差別智とも言われ、その判断の基準は自分中心の心(我執)である。もう一つの無分別智は、我執の煩悩である分別を取り去って、ものの在り方を正しく見る能力である。蛇足ながら、「分別がある」「分別がない」という使い方とは意味合いが異なる。
言い方を変えると、分別智は知識に基づく判断、自利の判断であり、無分別智は智慧に基づく判断である。自利と他利を区分せず、融合したものが智慧なのである。私たちの知識とは、客観的に物の何であるかを分析して知る分析知。このような知識を克服して、それを実践智に深め、物の真相に体達するというエネルギーまで深めた場合のことを知恵という。大学受験で評価されるのは知識であって、社会人となったビジネスの世界で評価され、成果が見えてくるのは知恵であるといったら、両者の違いは明確になるだろう。知識の積み増しだけにベクトルが向き、目を奪われている家族が、果たして幸せを手にすることができるだろうか。


 

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  • 引用: RBAタイムズ 301号(2009)