久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

No.06

「論語」から学ぶ

父母の教え 我が人生
大学まで父から逃げ惑った



「己欲立而立人、己欲達而達人」     【論語】


僕が高校3年生を前に「どこの大学でも行かせてやる」との父の言葉を信じ、これからの時代大学行くのなら海外の大学。そう心に決めイギリスとアメリカから願書を取り寄せました。いよいよ願書提出をしようと、自信と期待を胸に元気いっぱい父に向かいました。しかし、父は「確かに大学は何処でもいいと言った。だからといって海外の大学でいいとは一言も言ってない。日本の大学でなければ駄目だ。しかも法科。それ以外は絶対に許さない。行くのは一校だけなのだから、受ける大学は一校だけで十分!それ以外は駄目だ!」と一喝。自分が検察庁に勤める価値観をもって私の力説する将来の話にも大学の話にも、一切耳を貸してはくれなかったのです。


私は「海外の大学に行けないのならい今すぐ仕事をした方がましだとある時は友達のところに転がり込みガソリンスタンドでアルバイトを始めたり、またある時は喫茶店のマスターの家に転がり込むというように何度も家出を試みました。そのたびに父の手がまわって婦人警官の一斉捜査の前に見事に補導され連れ戻されてしまったのでした。このようにして高校を卒業する19歳まで、家庭という強制収容所みたいな環境で育てられた私には非行に走ることの自由も与えられていなかったのです。父にたいして申し訳ないことだと反省していますが、よく「国家権力の犬の言うことは聞かない!」と反抗してました。「法律を犯しているわけではないし、誰に迷惑をかけているわけでもない、だから罰せられることはない。僕は間違ったことはしていない。」と、遠くから腰を引きながら何度も何度も、言ったことを今も忘れられません。当然捕まったら羽交い絞められ往復ビンタという体罰が待っているからです。そうです、高校卒業まで父から逃げまくってました。


このような紆余曲折の上、日大芸術学部という失望と妥協による環境を勝ち取り、怒涛の8年間が始められたのです。そんな私をいつも見守ってくれた母は、「お父ちゃんは貴方が嫌いなんじゃないんだよ。自分が勤める国の法律やこの社会にある道徳だけではなく、久米家には久米家としての生きる道がある、ということを教えてくれているんだよ」と、ことあるごとに諭してくれました。そして「うちの家は安月給の公務員。間違っても海外の大学にやれるだけのお金はない。だからあなたの海外の大学は諦めなさい。その上で、どうしても海外の大学に行きたいと思うのなら、自分の子どもからそうするようにしなさい。だからといってあなたのやりたい事を子どもにやらせようなんてことは考えてはいけないよ。あなたのやりたい事は、あなたの孫から始められるように今から準備をすること。それがあなたに課せられた人生なんだから」と・・・。


母の言葉の、「子どもにやらせようとはしなさんな」は今や知らず知らずのうちに我が心から芽を出し、我が人生の核となって「子どもには僕の後を継がさない!」となり、「孫から始めるように」の「子孫」は第三企画の若いメンバーとなり、「300年後の子どもたち」になったのです。そして私に課せられた人生は、「300年後に生まれくる子どもたちに今以上の地球環境を残し行く」人生になったのでした。久米家の生きる道の訓(おしえ)として父母からこの体に叩き込まれた精神が論語の「己欲立而立人、己欲達而達人=己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達すべし」(自分がこうありたい、こうなりたいと思う事は、自分から人にやってあげなさい)であったことに気づいたのです。両親を誇りに思い心から感謝する次第。これからの我が人生は、父の人生、母の人生でもあるのです!

 

 

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  • 引用: RBAタイムズ 260号(2007)