久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

No.20

「理想・実現・現実」

今も16歳から思い定めた道を歩む
毅然とした母の後ろ姿を追う



母は華道と茶道を続けている。今年でかれこれ70年近くになろうか。弟子を持つ今も自ら学んでいる母が自慢でもあり、師匠でもある。この母の後を追っかけるのに私は必死である。幼いころから貧しくも毅然とした母の姿を見ながら大きくなってきた。だから人生は何があっても前を向き進むのが当たり前のように、あたかも見えない糸で縛られたようになりながら育てられた。そんな見えない糸に対する反抗を様々に試みてみたが、傷つきながらすべてが不発に終わってしまい、現在を迎えている。(そのおかげで)寄り道しながらではあっても、今も16歳から思い定めた一本の道を歩むことができるのは、両親の厳しくも暖かい指導があったればこそである。あの時あれほど憎んでいたのに、絶対に口をきかないと決めていたのに、年とともにありがたくなってくる。


親の存在とは、不思議なものである。同時に、夢と希望は豊かさや貧しさとの関係性がまったく無いと痛感する。誰一人相手にしてくれない時期であっても、母は信じ続けてくれた。人間不信に陥っていた時、僕の対応にすべての原因があると諭してくれた。落ちこぼれの僕を最後の最後まで信じてくれた。いつでも、どこでも最強の味方だった。いや今も最強の味方である。その母のためにと人生一事にふんばっている。
そんな僕の支えとなったのが、約680年前の徒然草にあるこの一文である。「芸能を身につけようとする人は、『よくできないような時期には、なまじっか人に知られまい。内々で、よく習得してから、人前に出ていくようなのこそ、まことに奥ゆかしいことだろう』と、いつも言うようであるが、このように言う人は、一芸も習得することができない。まだまったくの未熟なうちから、上手の中にまじって、けなされても笑われても恥ずかしいと思わずに、平然と押しとおして稽占に励む人は、生まれついてその大分がなくても、稽古の道にとどこおらず、勝手気ままにしないで、年月を過こせば、芸は達者であっても芸道に励まない人よりは、最後には上手といわれる芸位に達して、人望も十分にそなわり、人に認められて、比類のない名声を得ることである。世に第一流といわれる一芸の達人といっても、初めは下手だという噂もあり、ひどい欠点もあったものである。けれども、その人が、芸道の規律を正しく守り、これを重視して、気ままにふるまうことがなければ、一世の模範となり、万人の師匠となることは、どの道でも、かわりのあるはずがない。」(小学館日本古典文学全集)
この一文が理想に向かう僕の支えである。また、母の後を追う僕の道である。

 

 

追加情報

  • 引用: RBAタイムズ 275号(2008)