久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

No.37

桜の生き様に倣う

見るもよし、見ざるもよし
されど我は咲くなりという経営



今年も桜が通り過ぎていった。私たち日本人にことのほかいろいろな感情を引き起こさせる花、桜。江戸時代のはじめの頃には、散り際があっという間の桜を武士は好まなかったという。その武士も、太平の世の中「花は桜木、人は武士」といわれるようになって桜嫌いも消えたと言われている。更に後世になると武士道は桜を愛す日本人の心から生まれたとまで言われるようになった。日本人は桜を見て人間の生きざまを重ねる。


人間がこの世に生を持ったその時から、誰もが「生きたい」との欲望を持っている。それは全ての赤ちゃんが生まれてすぐにお乳を飲み、腹が空くと泣き出すことから始まる。また、誰もが「一人では生きたくない」との欲望を持っている。全ての赤ちゃんが、お母さんがいなくなったとたんに泣き出す。常に誰かにいてもらいたいとの強い想いがある。そして何事においても「知りたい」との欲望を持っている。手に触るもの、次第に見え出す周りの情景を手で触れ、口に入れて知ろうとする。次の段階ではお母さんへの質問責めとなる。これらは赤ちゃんに見られる本能的行動である。
「生きたい」から誰もが家に帰る。それは無償の愛で接してくれる母親がいるからである。「一人では生きたくない」から仲間をつくる。ところがその仲間については、「善悪は友による」とも、「その子を知らざればその友を視よ(荀子)」とも言われている。また、生きている限り誰もが「知りたい」との欲望を持っている。そして希望に胸を膨らませて入社する。無償の愛で育った人が、どんな人達と仲間になり、何を知ろうとするのか?誰からも愛される赤ちゃんが大人になったとき、なぜ変化してしまうのか?


会社はこの本能的な求めに応えているだろうか。そんな思いから第三企画は、上記の三つの本能を満たせるために、幸福の創造、文化の創造、仕事の創造という三つの価値創造に力を入れるのである。家庭を、両親を大切にしよう、仕事を第一義とするのではなく、仲間を第一義としよう、そして社会の中から本当に必要なモノを知るために、選別の基準を強化しよう、ということである。「一人の成長する姿をもって人の前に明かりを灯す」という理念がその根っこにある。桜の木は、ほんの一時の花を咲かせる春のために、一年の間どんな誘惑にも負けずじっと耐え忍び、侮辱、屈辱にも耐え、愚痴・不平・不満・文句・言い訳をしない。そして桜花爛漫となったあかつきには見事に散っていく。この生きざまは「見るもよし、見ざるもよし、されど我は咲くなり」との第三企画の生きざまであり、その根本を武士道と重ねているのである。


 

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  • 引用: RBAタイムズ 292号(2009)