久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

No.03

「近思録」から学ぶ

母の教えを想い出させた近思録
心に主人公を持つこと



「心に主人公を持つことだ。なにが主人公になるのか。敬である。」

【近思録】


幼い頃、母から教わったことに、「自分の心に従って大事なものを決めてはいけない。なぜなら、自分の心ほど当てにならないものはないからだ。」がある。そう教えられているにも関わらず、自分の心を当てにし、自分の心に従い、自分の心を信じ数々の後悔をする羽目になった。この経験から、『心』と『心の働き』は違うことに気付かされた。こんなことがある。「好き」と思っているのに、何かの出来事(=外部との接触)により全く反対の「嫌い」を口にする。この場合の「好き」が『心』で、何かの出来事により口にする「嫌い」が『心の働き』である。このように私たちの『心』がどれだけ正しいと判断しても、想定外の何かの出来事がきっかけで、その判断の変わる可能性は高いということである。確かに、「人と先を争わないように」を心がけても、外部との接触により顔をもたげる負けず嫌いに押し切られた自分がいた。また、「常に人に一歩を譲って控えめに」を実践しようとしても、知らず知らずのうちに人の前に立つ自分に手を焼いたこともある。これまで、心に固く決意すればするほど同レベルの『心の働き』に邪魔されて思うように行かない自分がいたのである。


そんな時以下の文に巡り会うことができた。
「曇りのない鏡がここにあった場合、万物は全てそれに映るが、それは鏡の常態である。鏡に物が映らないようにさせるのは、むずかしい。人の心は万物に感応しないわけにいかない。心に思慮させまいとすることは、むずかしいものだ。それを免れたいなら、心に主人公を持つことだ。なにが主人公になるのか。敬である。」【近思録】


心の働きをコントロールする道具は、「心に主人公を持つこと」だった。この文章に出会って、それまでの自分は全く逆の「自分の心を主人」としてきたことに気付いたのである。それからは「自分の心を主人」とすること無く、「心の主人」を抱き日々の業務にあたり現在を迎えることができている。感謝!

 

 

追加情報

  • 引用: RBAタイムズ 256号(2007)