久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

2009

自分ならではのD3

与えられた役目を担い日々に全力
夢=Dream ・ 躍動=Dynamic ・ 劇的=Dramatic



人生、先は闇である。しかし誰もが今の延長であると信じて生きている。明日を迎えられるのが奇跡的なことであるにも関わらず、何の思いもなく床についている。まさに、生きること全てが当たり前だと日々を過ごしている。


しかし私たちは違う!この世に人として生を受け、人間として生きられるこの現実に甘んじることなく、与えられた役目を全うしようと日々に全力を傾注する。これが私たちの道である。その道とは、易経に「形よりして上なるを道と為し、形よりして下なるを器と為す。」とあるが如く、形の無いもの(形而上)である。すなわち、形となったもの(形而下)はすでに器であって道ではなくなっているのである。
また、老子の第一章には、「語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名そのものではない。名づけえないものが天地の始まりであり、名づけうるものは万物の母である。だから、意図をもたない者が「道」に驚き、意図ある者はそのあらわれた結果しか見れない。この二つは同じものである。これらがあらわれて以来、名を異にする。この同じものは神秘と呼ばれ、神秘から神秘へとあらゆる驚きの入口となる。 (張鐘元著・上野浩道訳『老子の思想』より) 」ということである。私はこの「玄」(神秘)は黒くて観ることができない玄妙なもの、人生そのものと受け取っている。


だからこそ、私たちは人生という暗闇に向かっての航海の羅針盤として、「夢=Dream・躍動=Dynamic・劇的=Dramatic」を掲げ第三企画という人間集団を形成しているのである。ここでいう夢とは、「一寸先は闇」であるとの言葉を「はっきりと見えないさま」と解釈し、だからこそ「想い通りの日々を過ごすために、この世に人として生まれてきた」と人生を位置づけている。しかし、このままでは単なる我が侭となるので、歯止めとして「人の前に明かりを灯す」との理念を掲げているのである。


ここから第三企画流の「社員第一主義」が生まれ、明かりを灯しゆく社員の総和としての第三企画の社業があるのである。形而上の第三企画の理念と、形而下の社業を為す第三企画という器、この二つは老子の言葉にもあるように名は異にするが同じものである。これこそが社会的責任といわれているものの姿と確信している。このように、私たちが生きている世間は、見えない精神は見える形となってあらわれてくるという厳しい因果律の世なのである。だからこそ、社会という舞台で自分ならではの人生を演ずるのである。今年もこの道を力強く歩み続ける第三企画であることを、気持ちも新たに誓う次第。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 288号(2009)

近説遠来

お客様の気持ちを第一に考える
「近きもの」=お客様あっての経営



論語に「近き者説(よろこ)べば、遠き者来たらん」とある。この言葉は、孔子が楚の国の葉公から「国を善く治める決め手は」との質問に対して答えたものである。「楚の国の人々が喜ぶような政治をすれば、遠い国々の人々が集まってくる。人が増えれば産業も盛んになり国も民衆も豊かになる。悪人も少なくなり国は善く治まる。」と私なりに理解している。


ところで、よく世間(経営学)では、経営資源といえばヒト・モノ・カネ・情報だという。果たしてそうであろうか?それでは人がいて、モノがあって、お金があり、情報があれば会社は経営されていくのか?私は経営資源を並べてみても大切なものは何も見えてこない、と考える。なぜなら会社経営は、お客様あっての行為と信じるからである。極論すれば、一人の人間であるお客様と一人の人間である社員=社長とから始まるのである。
私の経営する第三企画にとって一番の「近き者」は、お客様である。「遠き者」とは、まだ取引をしていただいていないお客様である。経営のすべてはお客様の「ありがたいと思いつつ受け入れる」という行為から始まる。そして、引き続き、会社の成長・発展のすべてを担ってくださるのもお客様なのである。


そのお客様は、喜怒哀楽の日々を生きている人間である。だからこそ、人の気持ちが何よりも優先されるべき大切なものなのだと、私は声を大にして言いたい。「高いから買わない!」「やすいから使う!」「よい商品だから買う!」「便利なサービスだから利用する!」と言い切れるだろうか?これらの判断基準だけではなく、ここにお客様の感情が加わり入ってくる。だからこそ、「高いけど買う!」「不便だけど利用する!」という一見逆の行為が現実のビジネスの世界には起こるのである。だからこそ私は、お客様の気持ちを第一に考える。極論で、一人のお客様と一人の社長、私とで取引が始まると言った。しかし、実際はお客様がまず始めに当社とコンタクトするのは社員の面々であって、社長の私ではない。
だからこそ、第三企画はお客様のところへお伺いする社員を第一にする。私たちを生かして下さるお客様だからこそ、会社を運営する毎月の経費をご負担下さるお客様だからこそ、また「近き者に説(よろこ)んでいただく」からこそ、である。これがご利用下さるお客様への当社流の感謝の気持ち。だから今日も、社員のために全力を尽くす一日を生きるのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 289号(2009)

戦後最大の危機的状況

「人格より金銭」の社会こそ危機
ビジネスは人格の触れ合う場



平成21年2月16日の内閣府発表による速報値では、昨年10-12月期のGDPは、年率換算でマイナス12.7%となっている。これは第一次オイルショック後の1974年1-3月期のマイナス13.1%に次ぐ下落幅という。それだけでなく、今年1-3月期のGDPの伸び率においてもマイナスが避けられないとの見方となっている。「自分の存在感を示すこと」(小心者の特長)に躍起になっている麻生総理の行動がチェンジしない限り、戦後初の4四半期連続のマイナス成長は免れないだろう。


世間を騒がせている派遣切り・リストラ問題は、身近な家庭のやりくりを直撃することとなる。これは即、消費の冷え込みとなり更なる経済の悪化をもたらすこととなる。この下り坂の世相になると当然にして守りに入らざる得なくなってくる。しかし何事もそうであるが、登りより下りが難しいものである。登山のプロは、下山するときにこそリスクが潜んでいることをよく知っていて、ペース配分や方向性について細心の注意を払うではないか。いま、まさに企業では、膨れた規模に合う売り上げを作るのにやっきになっている。また家庭においても、膨れた生活レベルの維持が難しくなってきている。そんな時、どう動いていくかが問われる。動き方は、出来事の捉え方であり、見方であり、考え方である。そして、これらは一人の人間によって成されているということ、それによって将来が決定するのである。


いまや、企業でも家庭でも「金銭」が思考の中心になってやしまいか。人格あるお客様を、売上高の数字と見てはいないか。そしてその量によってお客様を評価してはいないか。上は政治の世界、企業から、下は家庭そして個人まで、このような見方・考え方をもとに動いていないか。このような見方・考え方で現実に動くことになれば、経済の混乱の度は増すことすれ、収まることはあり得ないだろう。
この点においてこそ「戦後最大の危機的状況」だと痛感している。こんな現代社会だからこそ、第三企画は、ビジネスを人格ある人と接しゆく人間関係業と捉え、それに徹し、日々全力で生きている。お客様という人格ある人に接する姿勢を堅持するからこそ、自らも人格ある人に見られる。それが人間社会だと信ずるのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 290号(2009)

時間価値と成功観

100年に一度の経済危機から学んだもの
得た時間は向上に振り向ける



私は、100年に一度といわれている経済危機的状況というのは、現代社会における「時間価値の変化」によって引き起こされた個々人における「幸福観の変化」によってもたらされたものだと理解している。従来の時間価値は、それに伴う成果の量によって裏付けることができた。いわゆる、時間×単価の計算式である。社会構造そのものが、時間を基準とした仕組みをもとに作られていた。そんな世界だからこそ、時間をかけた分だけ生産があがるという論理が成り立つ。これらは現実に存在するモノを中心としているので、ある意味において人間が時間に縛られるという現象も生み出すことになった。チャップリンの「モダンタイムス」である。


チャップリンは、20世紀を市場経済・資本主義による光と影で表現した。いわゆる、モノを中心とした経済、需要と供給を通じて需給調節と価格調節を行う経済、このモノと時間を中心とした市場を重視する結果、人間が犠牲となってしまう経済体制を風刺したのである。人間が生きるということ、それは「生産と消費」の継続でなければならない。人間の判断力・行動力に見合う生産活動であり、消費活動でなければならない。このどちらのテンポが速すぎても遅すぎても不幸になってしまう。それが人間という生き物である。このアンバランスによる不幸を予感し警告を鳴らしたのがチャップリンであった。
一方、20世紀後半に爆発した情報革命は、21世紀型の金銭市場経済を創出した。この情報革命による金銭市場では、今までの時間価値は全く通用しなくなったのである。当然、そこで生きる人達の幸福感も全く違ったものにしまった。その市場経済、金さえ手に入ればという極めつけ、それがレバレッジ効果を最大限活用したサブプライムローンである。レバレッジというモノという実態を伴わない虚構市場が創出したゴール、それが100年に一度の経済危機といわれているものの実態である。


戦後、われわれが範としてきたアメリ型経済は、スピード・効率・倹約を追い求めてきた。ところで、移動時間を短縮するのは、何のため?情報伝達時間を短縮するは、何のため?かける時間は短く、時間当たりの量は拡大、しかも小人数、この体制は誰のためなのか?われわれはことのほか、せかされてきた、急がされてきた、虚構の市場の中で。さあここで、100年に一度の経済危機がおこり、日常の生き方に多くの警鐘となった。この経済危機を教訓として、第三企画は、より早く、より無駄なく、より正確にと活動し、そこで得た時間を、家庭、学修、仕事の三つの向上に振り向けることに貢献するのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 291号(2009)

桜の生き様に倣う

見るもよし、見ざるもよし
されど我は咲くなりという経営



今年も桜が通り過ぎていった。私たち日本人にことのほかいろいろな感情を引き起こさせる花、桜。江戸時代のはじめの頃には、散り際があっという間の桜を武士は好まなかったという。その武士も、太平の世の中「花は桜木、人は武士」といわれるようになって桜嫌いも消えたと言われている。更に後世になると武士道は桜を愛す日本人の心から生まれたとまで言われるようになった。日本人は桜を見て人間の生きざまを重ねる。


人間がこの世に生を持ったその時から、誰もが「生きたい」との欲望を持っている。それは全ての赤ちゃんが生まれてすぐにお乳を飲み、腹が空くと泣き出すことから始まる。また、誰もが「一人では生きたくない」との欲望を持っている。全ての赤ちゃんが、お母さんがいなくなったとたんに泣き出す。常に誰かにいてもらいたいとの強い想いがある。そして何事においても「知りたい」との欲望を持っている。手に触るもの、次第に見え出す周りの情景を手で触れ、口に入れて知ろうとする。次の段階ではお母さんへの質問責めとなる。これらは赤ちゃんに見られる本能的行動である。
「生きたい」から誰もが家に帰る。それは無償の愛で接してくれる母親がいるからである。「一人では生きたくない」から仲間をつくる。ところがその仲間については、「善悪は友による」とも、「その子を知らざればその友を視よ(荀子)」とも言われている。また、生きている限り誰もが「知りたい」との欲望を持っている。そして希望に胸を膨らませて入社する。無償の愛で育った人が、どんな人達と仲間になり、何を知ろうとするのか?誰からも愛される赤ちゃんが大人になったとき、なぜ変化してしまうのか?


会社はこの本能的な求めに応えているだろうか。そんな思いから第三企画は、上記の三つの本能を満たせるために、幸福の創造、文化の創造、仕事の創造という三つの価値創造に力を入れるのである。家庭を、両親を大切にしよう、仕事を第一義とするのではなく、仲間を第一義としよう、そして社会の中から本当に必要なモノを知るために、選別の基準を強化しよう、ということである。「一人の成長する姿をもって人の前に明かりを灯す」という理念がその根っこにある。桜の木は、ほんの一時の花を咲かせる春のために、一年の間どんな誘惑にも負けずじっと耐え忍び、侮辱、屈辱にも耐え、愚痴・不平・不満・文句・言い訳をしない。そして桜花爛漫となったあかつきには見事に散っていく。この生きざまは「見るもよし、見ざるもよし、されど我は咲くなり」との第三企画の生きざまであり、その根本を武士道と重ねているのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 292号(2009)

生への意欲

失敗しても失敗してもかまわず前進
宿命と捉えず 運命を切り拓く



花壇にわれ先にと咲く花があれば、通りすがりの道端にも力強く咲く花がある。それぞれが、それぞれの色を輝かせながら、我こそはと咲いている。どれを見ても鮮やかな色である。人知では計り知れない、考えれば考えるほど不思議で仕方ないほどの色を見せてくれる。安らぎと勇気を与えてくれるありがたい存在である。そんな花たちにも好き嫌いがある。寒いところが好きな花があれば、暖かいところが好きな花もある。そうかと思えば、朝が好きな花もあれば夜が好きな花もある。これらの現象を見るにつけ、花たちの生への意欲の存在を認めざるえない。


人間界における意欲とは、「物事を積極的にしようとする気持ち」である。であるなら草花たちの様々な現実に表れた事象は、花たちの意欲の出方としての現象である。まさに、大きな花があれば小さな花があるように、また、花の形態に見てとれるように熱帯・寒帯によって花の持つ意欲の出方が違ってきているのである。動物の世界においても然りである。肉食動物がいると思えば、草食動物がいる。人間においても然り。甘いものが好きな人がいると思えば、辛いものでなければ食べ物に非ずと言うほどの辛いもの好きもいる。
そもそも私たち人間には、知識と感情と記憶がある。これらから意欲が生れてくる。花たちは、生きていくための意欲は生まれたときから備わっている。それに対して私たち人間の意欲は後天的なものである。日々の生活により身につけてきたものが、意欲と形を変え、その人となりを形成してきているのである。


私たち人間には、四種類の人間がいる。(一)それは無理だと考える人。(ニ)すればよかったと考える人。(三)そのうちすると考える人。(四)して良かったと考える人。そしてこの人生を、この命を「宿命」と捉える人もいれば、「運命」と捉える人もいる。前者の考える人の人生は、それまで生きてきた呪縛により以後は消化試合的な日々として生きることとなる。それに引き換え後者は、今までは今まで、これからはこれからといった「命を運ぶ」創造的な日々を生きることとなる。
私たち第三企画は、今がどうであれ「一回しかない人生」を楽しく生きるために、社業を通して「失敗しても、失敗しても、かまわず前進」の意気込みを沸き立たせている。どれほど追い詰められても諦めることなく、過去に流されることなく、今まで以上の新たな意欲が湧き出でるまで本気で自分と闘う、そういう日々を過ごしている。このようなマドル・スルーの姿勢が第三企画の生き様である。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 293号(2009)

RBAは前向きに生きる大きな流れ

21年目、さらなるRBA野球道を


今年で21年目を迎えることとなったRBA(Real estate Baseball Association)。皆様方の真心と叱咤激励を頂き、頂けたご指導を全力で実践する中、気がつけば21年目となりました。周りからのご指導をいただき、それを指針とさせていただけからこその20年間です。皆様方に衷心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。これからも今まで以上に人生を賭けて運営を担当させていただきます。どうぞ宜しくお願いいたします。


そもそもRBAとは、日本名を「日本不動産野球連盟」といい、発足時から「RBAは、どこまでも人間と現実社会に根を下ろし、情熱をもってこれを改めていこう」とする運動であった。この運動の目的は、行動自体を目的としているので、必ずしも成功という結果を求めているのではない。すなわちRBAは、「良心と道理を旨とし、ただ、ただ、実践に徹しゆく運動体である」と定めた。その行動の目指すところは、①業界で働く人々の成長と健康と、その家族の幸せ、②業界の親睦と繁栄と発展、③国際親善への貢献である。21年前に、三井不動産、三菱地所、東急不動産、ケンコーポレーションを幹事会社として発足したRBAは、今や、中華人民共和国駐日本国大使館、在京タイ王国大使館、駐日モンゴル国大使館など海外の諸機関の協力をも得ながら、お陰さまで着実に発展している。


RBAが発足したのが平成元年、ちょうど東京ドームがオープンしたばかりで不動産業界の高揚期だった。この運動の証しとして「RBA速報」が発刊され、それが現在の「RBAタイムズ」に成長したのである。「正しい言葉」、「嘘が蔓延する社会を変えていく言葉」、「人々に希望を与えていく言葉」を世の中に流しゆきたいという強い思いがあり、そして、『よき人』、『よき模範』、『よき人生』の体現者を発掘、宣揚したいという使命感をもってRBAタイムズを発行した。手で触れ目で見ることが出来るように「具体的な誠」にするのがRBAの役目であり、それを言論面において実践するのがRBAタイムズである。


私たちは、天からの授かりものとして生を受け、この世に存在している。だから人生において肉体上の耐久力、自己制御能力、持続する意思、説得力、知性の五つが大事である。この五つが発現することで、挑戦する生き方、他人を客観的に見ると同時に人間的に見る生き方、他人を不安にさせない生き方が実現する。だからこそRBAが提供する、野球大会という場に意義がある。RBA野球道と呼ぶのがこれである。野球を通じて五つの資質を伸ばす努力を惜しまない選手の皆様方がRBAの活動に触れ、それによって、「前向きに生きる大きな流れの中にいる」ということを実感いただければ幸いである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 294号(2009)

家訓と企業理念

価値観を部下と共有する経営
企業理念を知る努力を促す



会社は社長の力量によって成長するとの考えを教えられ、今まで頑張ってきた。もちろん勉強もしてきた。しかし何か釈然としないものを払拭できないままでいた。しかし最近になって、何やらおぼろげながらではあるが、新たな考えが芽生えだしてきた。結論からいうと、「会社の成長は社長の力にもよるものはもちろんのこと、最大の要件は構成メンバーにある」ということである。「上司は部下を理解するのに三年かかるが、部下は上司を三日で判断する」との言葉がある。この言葉をもって単純に計算することはできないが、世間に広く認知されている言葉だけに、部下の能力が365倍勝っていることに驚きを隠せない。先述の結論にでてくる構成メンバーとは、ここにでてくるような部下の存在のことである。


さて私たち人間が日々生きていくためには、数しれず判断をしなければならないが、それぞれの判断の基にはその人の価値観がある。ここでいう価値観とは、「生きていく上において物質的に、精神的に何を大事にするのか?」ということである。この価値観が、人生における判断局面の信号機となるもので、何よりも重要な位置を占めるものである。家族でいえば、家訓が価値観である。家訓といわないまでも、ご両親の価値観をこどもが共有していなければ家族はバラバラとなってしまう。会社でいえば、「企業理念」が会社を構成するメンバーの価値観に他ならない。そうでなければ企業は目的を果たすことはできない。


もし、価値観(理念)の共有がなされていないと、各人がそれぞれの主観で物事を判断することを許し合っているということになる。まさに会社においても私生活においても、「金(主観)の切れ目が縁の切れ目」といった関係性となる。価値観の共有がないと、いきなりの恋人関係の破局・離婚、または、いきなりの退社、困窮したときの退社、誘いによる退社等になりかねない。(破局、離婚、退社など、事柄そのものの是非をいっているわけではないので念のため)
生きるということが、知るということであるだけに、日々起こる事物を大まかな意味内容と済ませてはならない。メンバーが経営活動に参加するということは、メンバーが正しく企業の価値観=企業理念を知る努力をするように促すことである。これは何があっても怠ってはならない。でなければ、人生をかけて取り組んでいる理念に基づいた経営が、経営者の一人相撲となったり、単なる裸の王様となって物笑いの種となりかねないからである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 295号(2009)

表と裏

100年に一度の経済的チャンス
でも経営は「出てはいけない表」



「表があるから裏がある」とは、母からよく聞かされてきた言葉である。表と裏の関係は、「優しさがあるからと厳しさがある」、「ピンチがあるからチャンスがある」というように置き換えることもできる。今の現実に当てはめると、「100年に一度の経済危機とは100年に一度の経済的チャンス」ということになる。最近になって周りから「第三企画さん、大丈夫ですか?」とよく聞かれる。それはごく当たり前だといえよう。今の世間では、不動産業界と広告業界とソフト開発業界は不況三大業界と言われているくらいであるからして、第三企画はそのうちの二つが当てはまるとすれば、当然過ぎるくらいの疑問である。私が相手であってもそう聞くだろう。
その時に私は必ずこう口にする。「100年に一度のチャンスの真っ最中です。」現に第三企画は、100年に一度のチャンスに嬉々として立ち向かっている。こういう環境だからこそ、普段では二の足を踏む大胆な改革もできるし、将来性豊かな優秀な新卒もたくさん集まってくる。考えてみても信じられないタイミングである。100年に一度しか廻ってこないようなこの時期に、成熟した社会人として働ける年齢で生きている。最高の幸せである。この舞台に立てるという幸せを、無意識のうちに自覚している自分に驚き、母への感謝の念が心底から込み上げてくる。


こんな時だからこそ前述の「表があるから裏がある」を思い出す。というのも、その続きがあり、それが心に引っかかっているからである。「表だから出ていく、裏だから出ていかない、ではないんだよ。出ていけても我慢する『表』もあれば、出ていきたくなくても出ていかなければならない『表』がある。同様に、出ていきたくても出ていけない『裏』もあれば、行き詰まってにっちもさっちもいかない『裏』もある」と。
この場合における「表」と「裏」の在り方は、それぞれの人が持っているそれぞれ独特の粘着性だというのである。いま100年に一度の経済危機のただなかにあるものの、第三企画の経営は「出て行きたくても出てはいけない表」であって、決して「行き詰まってにっちもさっちもいかない裏」ではないのである。現在の私は「表」ではあるが、相手の「表」と「裏」、そのどちらと共鳴するのかにかかっていると解釈している。
お陰さまで、RBA野球大会は例年のように開催している。しかも、加盟企業・チームは過去最高となっている。この場合は先述と逆で、RBAの活動は「出てはいけない裏であっても、出ていかなければならない裏」なのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 296号(2009)

家族力①

家族の中心は社会的な「大人」の夫婦
六大欲を調整できる家族か?!



家族とは、「夫婦とその血縁関係にある者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団」(大辞泉)である。中心となる夫婦とは「婚姻関係にある男女の一組」である。その婚姻はというと、「男女の継続的な性的結合と経済的協力を伴う同棲関係で、社会的に承認されたもの」である。そして社会的とは、「社会に関係するさま。社会性があるさま」である。現代社会の問題は、家族や家庭にこの社会的な側面、すなわち集団をつくり他人と関わって生活しようとする人間の本能的性質・傾向が、大きく欠如していることなのである。


社会的に承認されるということは、一組の男女の社会性が認められていることが必要条件となる。ゆえに社会問題が起こる多くの場合は、社会的に問題を持つ男女の結婚に原因があるといっても過言ではない。では、社会的に承認されている人とはどんな人なのか?私たちの社会ではその人達を「大人」と表現している。「大人」とは、「成長して一人前になった人」である。
言い換えれば「大人」とは、社会の常識と言われているものからはみ出さないようにして、なおかつ自分自身の欲望を満たしていくことができる人、他人に迷惑をかけない人、社会善と社会悪の判断ができる人である。つまり大人とは、食欲・睡眠欲・性欲・財欲・名誉欲・知識欲の六大欲を制御し統制することができる人間である。周りを意識しながら時と場所に応じてうまく調整する人こそ大人といえる。
そしてこの六大欲の「強弱」と「組み合わせ」がその人の個性をつくり、形となって私たちの眼前に現れているものである。結婚とは、その六大欲の組み合わせが掛け算的に増えていくことが期待されている社会的仕組みなのである。その生活形態である家族は、夫婦がどのように欲を調整しているかという実験・証明の場である。その六大欲の調整の仕方によって、喜びも充実感も心の豊かさも違ってくる。


家族の原点となるのは夫婦であるが、それを形成する男女の基本的役割は、古今東西、男性が物質面において未来に宝を残すことであり、女性は協調性ある有為な人材を世に送り出すことである。この一点が定まっているか否かが、家族の力が幸福へ向かうか、不幸へ向かうかを決定させることになる。その方向性が、今現在の家族の関係性となり、家庭という生活の場となり、それが家族力をつくっていくのである。そしてこの家族力は、「このような子供を育てたい」との両親の意識・思いを飛び越え、六大欲の調整の結果通りに、育っていくのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 297号(2009)

家族力②

一人の人間にみる六大欲と個性
六大欲の共鳴、増幅が生む家族力



前号で、家族の中心は社会的な「大人」の夫婦であって、食欲・睡眠欲・性欲・財欲・名誉欲・知識欲といった六大欲を制御することができる人間でなければならない、といった。今回は、この六大欲がその人の個性をつくることについて述べよう。


私たちに備わる個性について辞書には、「個人を特徴付けている性質・性格。その人固有の特性」とある。性質とは、その人に生まれつき備わっている気質であり、性格とはその人が生まれつき持っている感情(主観的な心の動き判断=快い・不満だ。美しい・感じ悪い等)や意志(自身が目的的行動を生起しそれを持続させる心の強さ)である。さて、この個性の説明にでてくる「性質」「性格」「特性」という言葉のすべてに付いている「性」に字についてである。「心が立って生きる」と書くこの字は、「生まれつき持っている心の働きの特徴」であり「人や物に備わる本質・傾向」と辞書にあるごとく、人間が動くとき、すなわち生きる瞬間(生命活動)に出会い・触れ合うものすべてに対する「個々人の反応の仕方」をあらわしている。すなわち性質・性格とは、立って活動する無形の心(一人の人間)が、その生活空間において出会い触れ合う現実において、その都度反応しながらも、一定の反応における法則性(傾向性=行為)を現してくる現象を総じて言い表している。
その個々人の反応の仕方、それに「質」があり「格」があるのである。個々人の反応を、人間社会全体にとって有益か否かで区別したものが品位・品格という価値判断である。「品」という四角い形を三つ(ここでは人間と解釈する)並べて書いた漢字は、三つを比較検討し順位をつけ評価する言葉である。また、「格」は、こつんとつかえるかたいしん棒を表す言葉であり、人に当てはめれば、しんにもつ本質のことである。


私たちが目にできる現象からあらわになる個々人の個性は、その人さえ自覚することがなかった「自分」がいきなり顔をだした姿である。もちろんそれは私たちを動かしている六大欲が基である。その六大欲の強弱と組み合わせにより織りなされる動態の一面が個性となって表れ、「その人らしさ」といわれるものとなる。
私たちの一大イベントたる結婚とは、格と格との触れ合いであり、こつんとつかえるかたいしん棒にお互いが積極的に感応し合うことである。言い換えれば、結婚は男女の六大欲の共鳴であり、結婚生活とは六大欲の増幅を目指すものである。この六大欲のベクトルと増幅の度合いが、その集団すなわち家族の力の源なのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 298号(2009)

家族力③

分かった「人間の条件」前頭前野
六大欲の調整は手つかずの時代



六大欲の制御について興味ある出来事がある。それは1848年、米国ヴァーモント州で起こったある鉄道工事事故である。この事故が人類史に新たな「人間の条件」をもたらしたのである。フィネアス・ゲイジ氏は鉄道工事現場監督であった。その事故は、爆風で飛ばされた長さ30センチの鉄棒が、ゲイジ氏の前頭葉を直撃貫通するというものであった。ゲイジ氏は一命を取り留めたものの、この事故で前頭葉の先端部分である前頭前野のほとんどを失ったのである。病院での彼は事故の重大さをよそに、これといった機能障害もなく順調に回復していた。いわゆる普通の正常な人間として復帰したのである。


しかしである。職場仲間はびっくりした。現場監督を務めるほど責任感の強い優秀な働き者であったゲイジ氏は、どこかに行ってしまった。眼前にいるゲイジ氏は、卑猥で、自己中心的で、すぐに切れ、いざという時にも関わらずなに一つの決断もできない、悪意に満ちた、どうしようもない、全く別人といっても言い過ぎでない人物となっていた。この事故を機に、前頭前野の役割が明らかになったのである。事故後のゲイジ氏のごとく「卑猥で、自己中心的で、すぐに切れる、決断ができない、悪意に満ちている」のは、ヒトとしての本能そのままの振る舞いをする、六大欲の制御が利かない人間である。理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ思考能力の機能、それが前頭前野の役割であった。
そもそも生きものは、食欲、性欲、睡眠欲に基づく本能的振る舞いで、外部からのエネルギーを取り入れ、自己を維持・発展させる、「環境に開かれた存在」である。その環境適応能力は、大小の差こそあれすべての生き物に与えられている。それに加えて、人間が社会的な動物であるがゆえに、私たちには財欲、名誉欲が加わり五大欲に振り回されることになるのである。人間はまさに、五大欲で生きているといっても過言ではない。コメディアン植木等のいう「わかっちゃいるけど止められない」である。


そんな私たちは、わずかに知識欲によって五大欲を制御・調整する術を解き明かそうとしてきた。「人間の条件」たる前頭前野の役割を解明してきたのはこの知識欲によるものである。ところがこの知識欲も統制・制御しなければならない対象なのである。原子力の研究がそうであったし、ヒトゲノムの解読や遺伝子操作も知識欲の欲するままにしていいのか疑問がつきまとう。知識欲は成果となって現代文明を形作ってきた。がしかし、知識欲を加えた六大欲の調整においては全くと言っていいほど手つかずである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 299号(2009)

家族力④

六大欲を制御・統合する知恵
家族の幸せは知恵力を高める事



誰もが職場で経験することであるが、自分自身をそのまま認められたいとの欲求と、周りの人達の視線に自分をさらす恐怖との間のジレンマに陥ることがある。これも一つの知識欲の産物といえるものであるが、この場合においては知識欲による統合は成されていない。私たちの日常に目を転じると、人は幸せを目指して、社会に評価されたいと成功を望み、自分中心に好きなことがしたいと願いながら生きている。いわゆる生きるということは、こうありたいという欲望とこうあるべきだという願望の狭間でもがくということである。それは、相手の意向を汲みながら自己を主張するという、謙虚さとわがままの二律背反の日々といっても過言ではない。


鳩山首相は所信表明で「人間の究極の幸せとして、①愛されること、②誉められること、③役に立つこと、④必要とされること」と述べた。これを達成するための条件は、食欲・性欲・睡眠欲・財欲・名誉欲の五大欲を強力に統合できる知識欲がもたらしてくれる。この場合の知識欲とは、ヒトゲノムの解析や遺伝子操作技術の開発や原子力の研究開発等にみられる最先端の知識を追求しようとする原動力であり、それが日常生活(生命活動)に現れてくるものと捉えることができる。
この知識欲を、昇華させ、制御・統合させた働きを持つもうひとつの知識欲の姿が「知恵」である。制御・統合とは、人類の幸せと繁栄の為に、感情をコントロールし、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ思考能力を発揮する人間性そのものである。この「知恵」が六大欲を制御・統合する前頭前野の持つ真の実体であろう。


であるなら社会の最小単位である家族における六大欲の調整(制御・統合)とは、家族の幸せと一家の繁栄のために感情をコントロールし、家族を敬い、優しさをもって、責任感のある、決断力に富んだ思考能力、すなわち「知恵」を発揮することである。そして個人における「知恵」とは、「日々の生活において、鏡を通して自らの姿(表情・身なり)を省み整えること。学びを通じ人類の過去の歴史と同じ過ちを繰り返さないこと。そして、日常において模範となる人、注意を施してくれる人の意見を素直に取り入れ自らを正すこと。」である。
家族力とは、夫婦の知恵力である。この力が家族間の人間模様を織りなす核であり源である。そして知恵力が家族の格を形作る。いわゆる幸・不幸は、家族における知恵力のバロメーターであるゆえ、不幸だと思うならば知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 300号(2009)

家族力⑤

執着や煩悩を取り去るのが知慧
知恵は自利と他利を融合させる



前号で家族力とは、夫婦の知恵力であると書いた。知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである。この知恵とは何なのか、明らかにしておかなければならない。知恵には、知恵と智慧の二つがある。日常で使われている「知恵」は、「物事の道理を判断していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力」である。もう一つの「智慧」とは東洋三大哲学の一つである仏教語としての「智慧」である。意味するものとしては、「相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧」をもって、「物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力」 (大辞泉)である。


華厳経では、「智」は因果、順逆、染浄などの差別を決断する作用であるといって「智」を決断作用とし、「慧」は諸法の仮実、体性の有無などを照達することであるとして、疑心を断じ、しかも事物そのものを体験的に知ることである、としている。知恵という言葉を日常使っているが、その言葉の背景にはこのような仏教語の智慧があるのである。総じて智慧は、物事を正しく判断することであって、悟り(正しい考え・行動)に至る方途であり、正しく物事を認識し、判断する能力である。これによって執着や愛憎などの煩悩を消滅させることができるといえよう。


ところで「智」には、分別智と無分別智という分け方がある。分別智とは、「私たちが普通にものを認識し理解する能力」である。この能力は、常に有無・善悪・是非などの対立概念で分析・区別して分別(判断)するので差別智とも言われ、その判断の基準は自分中心の心(我執)である。もう一つの無分別智は、我執の煩悩である分別を取り去って、ものの在り方を正しく見る能力である。蛇足ながら、「分別がある」「分別がない」という使い方とは意味合いが異なる。
言い方を変えると、分別智は知識に基づく判断、自利の判断であり、無分別智は智慧に基づく判断である。自利と他利を区分せず、融合したものが智慧なのである。私たちの知識とは、客観的に物の何であるかを分析して知る分析知。このような知識を克服して、それを実践智に深め、物の真相に体達するというエネルギーまで深めた場合のことを知恵という。大学受験で評価されるのは知識であって、社会人となったビジネスの世界で評価され、成果が見えてくるのは知恵であるといったら、両者の違いは明確になるだろう。知識の積み増しだけにベクトルが向き、目を奪われている家族が、果たして幸せを手にすることができるだろうか。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 301号(2009)

家族力⑥

智慧の階段を上がるための家族力
今は聞慧、思慧、修慧のどの段階?



前回に「知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである」と書いた。分別智と無分別智など、知恵の区分けも説明した。つまるところ、知恵(智慧)の分別智は無分別智に包含されてこそ智慧となる。つまり知恵力とは、包含する力だ。問題は、この包含する力の増大をどう身につけるかである。では、知恵力を高めるために何をすれば良いだろうか。

中国哲学の孟子は、生活と智慧の関係を三段階に分けた。これを安岡正篤氏が分かりやすく説明している。『「所欲的」生活(欲に駆られてする生活)から、「所楽的」生活(楽しみを求めてする生活)、「所性的」生活(人間の本性、仁・義・礼・智・信を自然に発する生活)へと到達するにつれて、見聞きした智慧(単なる理解力)から段々真実の智慧が磨きだされる』と。
さらに安岡氏は『仏教にも「聞」、「思」、「修」と「慧」を区別する』と仏語の三慧を持ち出して、孟子の考え方との類似性を述べている。「聞慧」とは聞くこと、「思慧」とは考えること、そして「修慧」とは実践すること。この三慧とは、智慧を得る道である。古歌に、「耳にきき、心におもい、身に修せば、いつか菩提(悟り)に 入相(いりあい)の鐘」といわれてもいる通りである。孟子の区分けをくだけて表現すれば、「欲しがり、手にし、使いこなす」であって、三彗と符合するのだ。


このような区分けを念頭において、現在を省みるとどうなるか。職場では目先の数字をあげるため、道具探しと技術探しに奔走する日々である。よく目にする「ツール」「スキル」といった類のものである。教育においても、記憶力を優先した小手先のハウツーものに関心を示す。それが現状である。まさに、「追い求め」・「耳にきき」・「思いつき」で物事をすまそうとする文化に侵されてしまった「所欲的」生活の姿が、ここにある。数字化された目標に追いまくられる日々、自分を支えるための物品の所有に奔走する日々が、ここにある。

智恵力とは、所欲=所有への行動から、所楽=利用への行動に移り、所性=本来の自分へ向けた行動に向かって前進する力と言えよう。換言すれば、聞慧=聞きに向かう行動から、思慧=思い考える行動へ、そして修慧=日常に展開する行動へと前進させる力と言えよう。すなわち家族力とは、夫婦間における会話の段階が三慧のどの慧に属しているのかという認識から始まって、共々に協力して、一段あげる努力をする力のことである。次回はこの協力する力について考えてみる。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 302号(2009)