久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

2010

家族力⑦

第一子誕生は夫婦の一大変換点
協力と対話、どの次元のひと時か



結婚生活は、生まれも育ちも違う男女が共同生活を営むことである。その夫婦にとって、間違いなく重大で、最大の出来事は最初の子どもの出産である。第一子誕生は夫婦の変換点でもある。夫婦はその第一子の育成、教育について多くの選択肢に直面する。この選択肢を通して、若い夫婦は自分たちなりの家族を作りあげていくのである。


子どもにはどのような人間になってほしいのか、そのために、何をすべきか、何を避けるべきか、それぞれの設問にいくつもの選択肢が生まれる。お稽古事ひとつをとっても選択肢の多さに迷う。子をもつ親なら誰しも経験したことだろう。お稽古事はいくらでもある。人気ベスト3といわれるスイミング、英語・英会話、ピアノ・エレクトーンをはじめ、スポーツ系、文化系、学習系、いろいろある。どれをやらせるのか、一つだけか、二つも三つも習わせるのか、それとも習い事から子どもを解放するか。


夫婦が抱える諸般の事情で、習い事はさせられないと決めつけてしまう生き方がある。この場合の対話は「仕方ない」から始まる。一方、自分と子どもの双方の状況に判断基準を置いた対話は、諸般の事情を通過すべき難関と見る生き方、妥協点を探り出す生き方である。さらに上の次元の対話は、自分の人生と子どもの人生を鑑みた判断を模索する生き方、社会の中に生きる一人として、どう在るべきかを問う生き方である。


第一子誕生は、実は自分たちが生きてきた人生の総点検の機会でもある。単なる夫婦の共同生活から家族へ、その変換点が、第一子誕生のその時である。夫婦はここで生まれ変わらなければならない。それを、今までの延長線上と捉え、子どもに夢を託すような生き方をすれば、行き着く先は所欲的生活(欲に駆られてする生活︱前号ご参照)から導き出される結末への転落である。
わが子を抱きかかえるその時、夫婦は、膝を突き合わせ、今までの生き方(自分史)に耳を傾け、反省する「ひと時」を持てるか、どうか?そこから更に、自らの人生へと思いを広げていく「ひと時」とすることができるか?その時をきっかけとして、新たな日々へ、自らを変革していけるか、どうか・・・?夫婦が協力して持つこの「ひと時」が、家族力向上の差となる。

協力というからには目的が欠かせない。お互い、共通の目的に向かうところに対話が生まれてくる。この対話にこそ、力を合わせ向かうべきゴールへの道筋が隠されている。協力する力は、目的とする次元に比例して湧き上がってくるものである。あなたは家族とどの次元の「ひと時」を持ちますか?


 

追加情報

  • 引用 RBAタイムズ 303号(2010)

家族力⑧

親が本当の親になれるか
自我の成長の第三段階「親心」



物事には必ず二面性がある。子どもの誕生の場合においても然りである。私たちの人生における子どもの誕生という出来事は、一方では親を誕生させることでもある。親となる夫婦は、これまでの人生で遭遇した出来事、進路決定を始めとして結婚、趣味等々、ほとんどの場合において、自分を中心に決めてきた。その固く、壊れそうもない、その人らしい生き方が、180度変わり始める起点となるのが、子どもの誕生なのである。


子どもの誕生は、今までの人間関係が愛憎・損得・善悪という自分中心の価値観に基づいていたのに対し、無償の愛・利他・容認という一体感的価値観へと変わっていく瞬間となる。それは同時に、女性が妻になった結婚という瞬間をへて、更に母親を兼ねなければならなくなる時であり、夫になった男性が父親の立場を兼ねる時でもある。


この出来事を、単に、子どもの誕生によって家族構成員が一人増えたとみる現象として捉えてはいけない。その見方では、前回、「夫婦は子ども誕生のその時、協力し合いながら今までの生き方に耳を傾け省みることが家族力向上となる」と述べた「耳を傾けて省みること」にならない。子どもは、夫婦とは全く別の、一個の人格を持っている人間である。決して夫婦の所有物ではない。この一点を勘違いしてしまうと、子どもに夢を託す的な生き方となってしまうのだ。あるいは、泣き喚いてうるさくて言うことを聞かないからといって、目に余る折檻をして平気でいる親となってしまうのだ。


私たちは、幼少の頃と青年期の二回、自我意識の芽生えを経験している。反抗期といわれているものは、その最たる変化の兆しである。この反抗期を経て人間は成長する。ところが、実は、反抗期に匹敵する自我の大きな発達時期が大人になっても訪れる。それが、結婚と子どもが誕生するその時、なのである。それは、「子ども心」から「恋心」になり「親心」となってゆく人間の成長過程である。
この大人になってからの成長過程が成熟しないまま、単なる子どもの親となると、自らは「親」を誕生させていないので、食事を与えず餓死させたり、折檻を繰り返して死にいたらしめる犯罪者に転落することになり、それを食い止める歯止めを失ってしまうのだ。


このように子供の誕生とともに、夫婦が自ら「親」を誕生させているかによって、単なる血縁関係という人間の集団としての家族なのか、それとも自らの犠牲も省みないという親子関係の心が通じ合う相乗効果を持つ家族なのか分かたれる。家族力とは「親子の心が通じ合う」相乗効果のことなのである。それはまた現象面として、家族同士が協力という形で私たちの目に映るものである。

 

 

追加情報

  • 引用 RBAタイムズ 304号(2010)

家族力⑨

ペット飼育と子育て 愛の違い
子育ては親への感謝を表す行為



子どもの誕生とともに、夫婦が自ら「親」を誕生させたか、どうか。それによって、家族力は決定されてしまう。


現代社会では、時には事件の形をもって、親が自らの親を誕生させたかどうかを社会に明らかにしてくれる場合がある。先頃4歳児死体遺棄事件しかり、生後3ヵ月男児虐待殺人未遂事件しかりである。なぜ、このような事件が発生するのか。その原因は何なのか、それが分からなければ、現状の打開は困難である。自らの内に親が誕生していない親であっても、子どもが誕生する時には、五体満足を願う。そして誕生後においては、健康に育つか心配する。長じて学校に行くようになれば、まずは成績に目が行き、勉学を督励し塾通いに熱心になる。体力作りに目が向けば、英才教育を行うのもやぶさかでない。


しかし、子育てはペット飼育と違うのである。自らの内に親を誕生させていない親は、自分に都合のいいように子育てをする。自分の都合が悪くなるようなことがあれば、子育てを放棄する。可愛いから、癒されるからといってペットを飼育していても、大きくなって扱い難くなったから、言うことを聞かなくて手に負えないからといって捨ててしまうペットの飼い主の心境に瓜二つである。ペットへの愛情は、邪魔になったら捨ててしまう行動に表われているように、有償の愛なのだ。
それに引き替え、子育ては、対象となる子どもへの愛情に加えて、自分が親に育ててもらったことに対する感謝の想いに裏打ちされている。我が子を授かったその時に、自分が今在ることに思いを馳せ、自らの両親にどれほど感謝の念を持つことができるのか。その感謝の念こそが自らの内なる親の正体である。この感謝の念を知恩と言い換えれば、自らの内に親を誕生させるか否かの境目となるのは、この知恩である。この知恩があるからこそ、無償の愛が生まれる。眠い目を擦りながらでも深夜に泣き出す子どもをあやすことができるし、ダダをこねて言うことを聞かない子どもに辛抱強く向き合うことができるのである。


現代社会で発生している乳幼児をめぐる事件に戻ろう。この手の事件は未熟な親が起こした事件だと言われている。この未熟さは何なのか。子どもへの愛情が足りない未熟さなのではなく、自分が育ててもらった両親への感謝の念、知恩が足りないから未熟であるのだ。知恩(親の恩を知る)が我が子を育てることによって報恩(親の恩に報いる)になるのである。


 

追加情報

  • 引用 RBAタイムズ 305号(2010)

家族力⑩

人間として生きていける力の源
「親」に瞬間移動する力こそ家族力



「自分がなぜ生まれてきたのか?」を知る人は誰もいない。ましてや、「生きる意味」となると考えても答えを見つけることは難しいだろう。生きる理由も意味もわからぬままに、なぜ人間は生きていけるのか?結論を先に言えば、それは家族があり、家族力があるからなのだ。


家族は、「両親に子ども3人の5人家族」というように数に表すことができ、目にも見える。「大家族」とか「核家族」という表現もできる。ところが、家族力となると目には見えないし、数字で表現することもできない。ましてや手にとって示すことはできないものである。そういう家族力とはどんなものか。そしてそれが「なぜ人間は生きていけるのか」の回答になるのか。私達は、生まれてきた時に「心から喜んでくれる人に出会うから」、「ただそこにいるだけで喜んでくれる人に出会うから」生きていくことができるのである。これをもたらすのが母親による目に見えない愛、この無形にして強い愛が家族愛であり家族力である。これによって生きられるのである。私達は、誕生の瞬間に無意識のうちに自分が生きる意味を本能的に自覚している。誕生という母親との出会いは、無自覚的に「生きる意味」となり、「生きる価値」となり人格を形成する核となっているのである。


同時に子どもは、その誕生によって夫と妻という男女を「お父さん、お母さん」へと瞬間移動させるのである。もちろん、「お父さん、お母さん」を「おじいちゃん、おばあちゃん」へと瞬間移動もさせるのである。この瞬間移動の力こそ家族力の根源である。子どもの誕生という出来事は、お父さんやお母さんを知恩とか、報恩という愛の世界にいざなうものなのだ。これが、無償の愛の源泉であり、これによって「ただ一人」の人間が生成するのである。いつの場合も、赤子は無償の愛の対象となって誕生するオンリーワンの存在である。両親にとって赤子は、ベットにずらりと並んでいるなかで「あなたでなければダメ」な存在なのだ。つまり、この世に生まれてきた全ての人は、生まれてきたこと自体で既にオンリーワンの存在なのである。「ただ一人」の人の誕生だからこそ、「お父さん、お母さん」はわが子の愛おしさを鮮明に心に焼き付け、「ただ一人」の人だからこそ、わが身を省みることもせず、夜泣きされようが愚図ろうが一生懸命育てるのである。


この無償の愛から育まれる親子の関係から醸成されるのが、敬愛(=尊敬と親しみの気持ち)である。
この敬愛こそ家族力のもう一つの姿といえるものである。


 

追加情報

  • 引用 RBAタイムズ 307号(2010)

家族力⑪

思い出してみよう!無償の愛
命のリレー 走者のエネルギー源



お母さんが妊娠すると、自分の骨を作るよりも赤ちゃんの骨を作るのを優先する体になるのだそうだ。だから、お母さんはよくカルシウムを摂らないと骨粗鬆症になりやすいともいわれている。自分の骨身を文字通り削って、それでいてちょっとでもお腹が動くと、手を当てて動いた!動いた!といって大喜びする。そんな日々を過ごして迎える臨月、いよいよ十月十日(とつきとうか)で陣痛との戦いが始まる。そして、赤ちゃん誕生。お母さんはこの苦しみとの戦いを終えたすぐ後、生まれた子供を腕に抱え、優しく包み込み、わが子を受けとめるが、その姿には、今までの苦痛や苦労の影も形もない。
生まれたばかりの子どもは、昼夜関係なく、朝な夕なにお乳を欲しがり泣き喚く。小さい歯でお乳を噛んで血がでてしまうこともある。それでも、お母さんは文句ひとつ言わず黙々と赤ちゃんに応える。


少し大きくなるとオネショ。その時お母さんはいくら眠くても、眠い目を擦りながら着替えをさせる。自分が寝ていた乾いた布団に寝かしつけ、自分はオネショの上にタオルを敷いて寝る。朝起きると、オムツや下着の洗濯。どんなに臭くても、汚くても、顔色ひとつ変えず黙々ときれいになるまで洗う。それはオムツがとれるまで続くのだ。
美味しいものは自分より子どもに食べさせる。子どもの好きなものを忘れない。子どもの好物を目にしたら、それがどこであっても、その度に子どものことを思う。着るものもそう、自分が欲しいものを我慢して、子どもにきれいな洋服を用意する。それは子どもが成人しても、壮年になっても続く。それがお母さん。


物に限らない。人間関係においても同じである。どんな悪さをしても、必ず守る。どんな立場の上の人が相手であっても子どものためなら戦う。守る。正義がなくても守る。子どもが病気になれば、「代わってあげられるものなら、代わってあげたい」と口にし、自分が寿命を全うした後のことまで心を配る。それがお母さん。これが無償の愛なのだ。
このように無償の愛によって誕生し、無償の愛によって育まれた私たちは、家族の歴史の最先端に生きることが役目であり、それが自らの一生なのである。まさに人類史という舞台に繰り広げられる命のリレーといえよう。


リレーといえば、毎年私たちを感動の渦に巻き込んでくれる箱根駅伝のたすき渡し。毎年、出場権を獲得するため選手を補強する。しかし私たちの命のリレーは、交代することもできなければ補強することもできない。ゴール無きリレー、どこまで走るかも、どう走るかも最先端を走る私たちにかかっているリレーなのだ。走者は無償の愛をエネルギー源としてひたすら走る。


 

追加情報

  • 引用 RBAタイムズ 309号(2010)