久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

No.50

家族力⑨

ペット飼育と子育て 愛の違い
子育ては親への感謝を表す行為



子どもの誕生とともに、夫婦が自ら「親」を誕生させたか、どうか。それによって、家族力は決定されてしまう。


現代社会では、時には事件の形をもって、親が自らの親を誕生させたかどうかを社会に明らかにしてくれる場合がある。先頃4歳児死体遺棄事件しかり、生後3ヵ月男児虐待殺人未遂事件しかりである。なぜ、このような事件が発生するのか。その原因は何なのか、それが分からなければ、現状の打開は困難である。自らの内に親が誕生していない親であっても、子どもが誕生する時には、五体満足を願う。そして誕生後においては、健康に育つか心配する。長じて学校に行くようになれば、まずは成績に目が行き、勉学を督励し塾通いに熱心になる。体力作りに目が向けば、英才教育を行うのもやぶさかでない。


しかし、子育てはペット飼育と違うのである。自らの内に親を誕生させていない親は、自分に都合のいいように子育てをする。自分の都合が悪くなるようなことがあれば、子育てを放棄する。可愛いから、癒されるからといってペットを飼育していても、大きくなって扱い難くなったから、言うことを聞かなくて手に負えないからといって捨ててしまうペットの飼い主の心境に瓜二つである。ペットへの愛情は、邪魔になったら捨ててしまう行動に表われているように、有償の愛なのだ。
それに引き替え、子育ては、対象となる子どもへの愛情に加えて、自分が親に育ててもらったことに対する感謝の想いに裏打ちされている。我が子を授かったその時に、自分が今在ることに思いを馳せ、自らの両親にどれほど感謝の念を持つことができるのか。その感謝の念こそが自らの内なる親の正体である。この感謝の念を知恩と言い換えれば、自らの内に親を誕生させるか否かの境目となるのは、この知恩である。この知恩があるからこそ、無償の愛が生まれる。眠い目を擦りながらでも深夜に泣き出す子どもをあやすことができるし、ダダをこねて言うことを聞かない子どもに辛抱強く向き合うことができるのである。


現代社会で発生している乳幼児をめぐる事件に戻ろう。この手の事件は未熟な親が起こした事件だと言われている。この未熟さは何なのか。子どもへの愛情が足りない未熟さなのではなく、自分が育ててもらった両親への感謝の念、知恩が足りないから未熟であるのだ。知恩(親の恩を知る)が我が子を育てることによって報恩(親の恩に報いる)になるのである。


 

追加情報

  • 引用: RBAタイムズ 305号(2010)