久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

No.16

2008年「善進する第三企画」

過剰な自我を出さない
それが自分自身を生きること


論語「子罕第九」に「子絶四、母意、母必、母固、母我=子四を絶つ。意母(な)く、必母(な)く、固母(な)く、我母(な)し」とある。すなわちこの四つは、①主観的な私意②必ずやり通そうとする無理押し③頑固に自分を守り通そうとするかたくなさ④自分のことだけを考える我執―――である。孔子は常人の陥り易い四つのものを断ち切って、きわめて円満であったという。


私たち現代社会を生きるものとしては、耳の痛い話である。なぜなら私たちの目の前に氾濫しているネット・書物などにおける情報の多くは、①欲しいものを手に入れなさい。その方法は… ②夢をでっかく持つべきである、そして夢を追いかけなさい③何であれ内容問わず主張しなさい、主張することは個性的である。だから個性的でありなさい④とにかく頑張りなさい、頑張らなければ負け組となりますよ―――以上の四つそのものである。まさに私たちの人生とは、「意に起こり、心に遂げ、固に固まって、我に成る」である。ここでいう「意」と「必」は事前に位置し、「固」と「我」は事後に位置している。すなわち私たち自分自身の生は、「意と必」「固と我」の中間(=自分)に位置(=自身)しているということである。そして、そのサイクルによって形成される「我」が新たな「意」を生じさせるという人生のスパイラルの上に展開されているということでもある。日々忙しく過ごすこの繰り返しの積み重ねが、私たちの人生を作っているのである。


ゆえに第三企画では、①人は変化し成長もするが、何かの目標や方向に向かって成長や進歩を遂げるというわけだけではない②生きるということに過剰な自我を出さないことが第三企画における「品位」である―――と定め、日々の経営に臨むものである。なぜなら、私たち人間の「夢や目標」を追いかけ過ぎる行為は、現実という今から眼を反らすことにつながりかねない危険性を孕んでいるからである。当然、個人においても、そんな挑戦する自分の感情に飲み込まれ(自分の感情を過大評価し過ぎて)自分自身を見失うことになりかねないからである。そんな私たちが暮らしている世の中は、決着のつかない出来事・感情ばかりといっても過言ではない。だからこそ、自分を優先させないことが自分自身を生きることにつながるという逆も成り立つのである。
それが2008年第三企画が「善進」を掲げ「自分自身」に生きる理由である。

 

 

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  • 引用: RBAタイムズ 270号(2008)