久米 信廣の 「道」 254号~275号/新・「道」 276号~309号

 

No.47

家族力⑥

智慧の階段を上がるための家族力
今は聞慧、思慧、修慧のどの段階?



前回に「知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである」と書いた。分別智と無分別智など、知恵の区分けも説明した。つまるところ、知恵(智慧)の分別智は無分別智に包含されてこそ智慧となる。つまり知恵力とは、包含する力だ。問題は、この包含する力の増大をどう身につけるかである。では、知恵力を高めるために何をすれば良いだろうか。

中国哲学の孟子は、生活と智慧の関係を三段階に分けた。これを安岡正篤氏が分かりやすく説明している。『「所欲的」生活(欲に駆られてする生活)から、「所楽的」生活(楽しみを求めてする生活)、「所性的」生活(人間の本性、仁・義・礼・智・信を自然に発する生活)へと到達するにつれて、見聞きした智慧(単なる理解力)から段々真実の智慧が磨きだされる』と。
さらに安岡氏は『仏教にも「聞」、「思」、「修」と「慧」を区別する』と仏語の三慧を持ち出して、孟子の考え方との類似性を述べている。「聞慧」とは聞くこと、「思慧」とは考えること、そして「修慧」とは実践すること。この三慧とは、智慧を得る道である。古歌に、「耳にきき、心におもい、身に修せば、いつか菩提(悟り)に 入相(いりあい)の鐘」といわれてもいる通りである。孟子の区分けをくだけて表現すれば、「欲しがり、手にし、使いこなす」であって、三彗と符合するのだ。


このような区分けを念頭において、現在を省みるとどうなるか。職場では目先の数字をあげるため、道具探しと技術探しに奔走する日々である。よく目にする「ツール」「スキル」といった類のものである。教育においても、記憶力を優先した小手先のハウツーものに関心を示す。それが現状である。まさに、「追い求め」・「耳にきき」・「思いつき」で物事をすまそうとする文化に侵されてしまった「所欲的」生活の姿が、ここにある。数字化された目標に追いまくられる日々、自分を支えるための物品の所有に奔走する日々が、ここにある。

智恵力とは、所欲=所有への行動から、所楽=利用への行動に移り、所性=本来の自分へ向けた行動に向かって前進する力と言えよう。換言すれば、聞慧=聞きに向かう行動から、思慧=思い考える行動へ、そして修慧=日常に展開する行動へと前進させる力と言えよう。すなわち家族力とは、夫婦間における会話の段階が三慧のどの慧に属しているのかという認識から始まって、共々に協力して、一段あげる努力をする力のことである。次回はこの協力する力について考えてみる。


 

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  • 引用: RBAタイムズ 302号(2009)