第三企画HP (550)
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第三企画は、NPO 法人RBA インターナショナルともども、不動産業界の繁栄と発展と相互親睦のために、日々の業務・活動に全力投球してまいりました。そのひとつの表れが日本不動産野球連盟RBA 野球大会の開催であり、またRBA 女子会の開催でもあります。今般ご案内します「RBA プラザ」も、この延長線上にある取り組みでございます。
いよいよ平成27年♪月♪日、『RBA プラザ』が、新宿アイランドの1階に開設する運びとなりましたので、ここにご案内申し上げます。
『RBA プラザ』は、お客様にマッサージ・ビューティートレーニング・フラワーアレンジメント・ネイル・英会話等、仕事・暮らしを豊かにする様々なサービスをご用意します。あわせて、セルビアコーヒーに親しんでいただける憩の場所としても、ご活用いただけるものと存じます。
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RBAは前向きに生きる大きな流れ
21年目、さらなるRBA野球道を
今年で21年目を迎えることとなったRBA(Real estate Baseball Association)。皆様方の真心と叱咤激励を頂き、頂けたご指導を全力で実践する中、気がつけば21年目となりました。周りからのご指導をいただき、それを指針とさせていただけからこその20年間です。皆様方に衷心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。これからも今まで以上に人生を賭けて運営を担当させていただきます。どうぞ宜しくお願いいたします。
そもそもRBAとは、日本名を「日本不動産野球連盟」といい、発足時から「RBAは、どこまでも人間と現実社会に根を下ろし、情熱をもってこれを改めていこう」とする運動であった。この運動の目的は、行動自体を目的としているので、必ずしも成功という結果を求めているのではない。すなわちRBAは、「良心と道理を旨とし、ただ、ただ、実践に徹しゆく運動体である」と定めた。その行動の目指すところは、①業界で働く人々の成長と健康と、その家族の幸せ、②業界の親睦と繁栄と発展、③国際親善への貢献である。21年前に、三井不動産、三菱地所、東急不動産、ケンコーポレーションを幹事会社として発足したRBAは、今や、中華人民共和国駐日本国大使館、在京タイ王国大使館、駐日モンゴル国大使館など海外の諸機関の協力をも得ながら、お陰さまで着実に発展している。
RBAが発足したのが平成元年、ちょうど東京ドームがオープンしたばかりで不動産業界の高揚期だった。この運動の証しとして「RBA速報」が発刊され、それが現在の「RBAタイムズ」に成長したのである。「正しい言葉」、「嘘が蔓延する社会を変えていく言葉」、「人々に希望を与えていく言葉」を世の中に流しゆきたいという強い思いがあり、そして、『よき人』、『よき模範』、『よき人生』の体現者を発掘、宣揚したいという使命感をもってRBAタイムズを発行した。手で触れ目で見ることが出来るように「具体的な誠」にするのがRBAの役目であり、それを言論面において実践するのがRBAタイムズである。
私たちは、天からの授かりものとして生を受け、この世に存在している。だから人生において肉体上の耐久力、自己制御能力、持続する意思、説得力、知性の五つが大事である。この五つが発現することで、挑戦する生き方、他人を客観的に見ると同時に人間的に見る生き方、他人を不安にさせない生き方が実現する。だからこそRBAが提供する、野球大会という場に意義がある。RBA野球道と呼ぶのがこれである。野球を通じて五つの資質を伸ばす努力を惜しまない選手の皆様方がRBAの活動に触れ、それによって、「前向きに生きる大きな流れの中にいる」ということを実感いただければ幸いである。
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 294号(2009)
生への意欲
失敗しても失敗してもかまわず前進
宿命と捉えず 運命を切り拓く
花壇にわれ先にと咲く花があれば、通りすがりの道端にも力強く咲く花がある。それぞれが、それぞれの色を輝かせながら、我こそはと咲いている。どれを見ても鮮やかな色である。人知では計り知れない、考えれば考えるほど不思議で仕方ないほどの色を見せてくれる。安らぎと勇気を与えてくれるありがたい存在である。そんな花たちにも好き嫌いがある。寒いところが好きな花があれば、暖かいところが好きな花もある。そうかと思えば、朝が好きな花もあれば夜が好きな花もある。これらの現象を見るにつけ、花たちの生への意欲の存在を認めざるえない。
人間界における意欲とは、「物事を積極的にしようとする気持ち」である。であるなら草花たちの様々な現実に表れた事象は、花たちの意欲の出方としての現象である。まさに、大きな花があれば小さな花があるように、また、花の形態に見てとれるように熱帯・寒帯によって花の持つ意欲の出方が違ってきているのである。動物の世界においても然りである。肉食動物がいると思えば、草食動物がいる。人間においても然り。甘いものが好きな人がいると思えば、辛いものでなければ食べ物に非ずと言うほどの辛いもの好きもいる。
そもそも私たち人間には、知識と感情と記憶がある。これらから意欲が生れてくる。花たちは、生きていくための意欲は生まれたときから備わっている。それに対して私たち人間の意欲は後天的なものである。日々の生活により身につけてきたものが、意欲と形を変え、その人となりを形成してきているのである。
私たち人間には、四種類の人間がいる。(一)それは無理だと考える人。(ニ)すればよかったと考える人。(三)そのうちすると考える人。(四)して良かったと考える人。そしてこの人生を、この命を「宿命」と捉える人もいれば、「運命」と捉える人もいる。前者の考える人の人生は、それまで生きてきた呪縛により以後は消化試合的な日々として生きることとなる。それに引き換え後者は、今までは今まで、これからはこれからといった「命を運ぶ」創造的な日々を生きることとなる。
私たち第三企画は、今がどうであれ「一回しかない人生」を楽しく生きるために、社業を通して「失敗しても、失敗しても、かまわず前進」の意気込みを沸き立たせている。どれほど追い詰められても諦めることなく、過去に流されることなく、今まで以上の新たな意欲が湧き出でるまで本気で自分と闘う、そういう日々を過ごしている。このようなマドル・スルーの姿勢が第三企画の生き様である。
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- 引用 RBAタイムズ 293号(2009)
桜の生き様に倣う
見るもよし、見ざるもよし
されど我は咲くなりという経営
今年も桜が通り過ぎていった。私たち日本人にことのほかいろいろな感情を引き起こさせる花、桜。江戸時代のはじめの頃には、散り際があっという間の桜を武士は好まなかったという。その武士も、太平の世の中「花は桜木、人は武士」といわれるようになって桜嫌いも消えたと言われている。更に後世になると武士道は桜を愛す日本人の心から生まれたとまで言われるようになった。日本人は桜を見て人間の生きざまを重ねる。
人間がこの世に生を持ったその時から、誰もが「生きたい」との欲望を持っている。それは全ての赤ちゃんが生まれてすぐにお乳を飲み、腹が空くと泣き出すことから始まる。また、誰もが「一人では生きたくない」との欲望を持っている。全ての赤ちゃんが、お母さんがいなくなったとたんに泣き出す。常に誰かにいてもらいたいとの強い想いがある。そして何事においても「知りたい」との欲望を持っている。手に触るもの、次第に見え出す周りの情景を手で触れ、口に入れて知ろうとする。次の段階ではお母さんへの質問責めとなる。これらは赤ちゃんに見られる本能的行動である。
「生きたい」から誰もが家に帰る。それは無償の愛で接してくれる母親がいるからである。「一人では生きたくない」から仲間をつくる。ところがその仲間については、「善悪は友による」とも、「その子を知らざればその友を視よ(荀子)」とも言われている。また、生きている限り誰もが「知りたい」との欲望を持っている。そして希望に胸を膨らませて入社する。無償の愛で育った人が、どんな人達と仲間になり、何を知ろうとするのか?誰からも愛される赤ちゃんが大人になったとき、なぜ変化してしまうのか?
会社はこの本能的な求めに応えているだろうか。そんな思いから第三企画は、上記の三つの本能を満たせるために、幸福の創造、文化の創造、仕事の創造という三つの価値創造に力を入れるのである。家庭を、両親を大切にしよう、仕事を第一義とするのではなく、仲間を第一義としよう、そして社会の中から本当に必要なモノを知るために、選別の基準を強化しよう、ということである。「一人の成長する姿をもって人の前に明かりを灯す」という理念がその根っこにある。桜の木は、ほんの一時の花を咲かせる春のために、一年の間どんな誘惑にも負けずじっと耐え忍び、侮辱、屈辱にも耐え、愚痴・不平・不満・文句・言い訳をしない。そして桜花爛漫となったあかつきには見事に散っていく。この生きざまは「見るもよし、見ざるもよし、されど我は咲くなり」との第三企画の生きざまであり、その根本を武士道と重ねているのである。
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- 引用 RBAタイムズ 292号(2009)
時間価値と成功観
100年に一度の経済危機から学んだもの
得た時間は向上に振り向ける
私は、100年に一度といわれている経済危機的状況というのは、現代社会における「時間価値の変化」によって引き起こされた個々人における「幸福観の変化」によってもたらされたものだと理解している。従来の時間価値は、それに伴う成果の量によって裏付けることができた。いわゆる、時間×単価の計算式である。社会構造そのものが、時間を基準とした仕組みをもとに作られていた。そんな世界だからこそ、時間をかけた分だけ生産があがるという論理が成り立つ。これらは現実に存在するモノを中心としているので、ある意味において人間が時間に縛られるという現象も生み出すことになった。チャップリンの「モダンタイムス」である。
チャップリンは、20世紀を市場経済・資本主義による光と影で表現した。いわゆる、モノを中心とした経済、需要と供給を通じて需給調節と価格調節を行う経済、このモノと時間を中心とした市場を重視する結果、人間が犠牲となってしまう経済体制を風刺したのである。人間が生きるということ、それは「生産と消費」の継続でなければならない。人間の判断力・行動力に見合う生産活動であり、消費活動でなければならない。このどちらのテンポが速すぎても遅すぎても不幸になってしまう。それが人間という生き物である。このアンバランスによる不幸を予感し警告を鳴らしたのがチャップリンであった。
一方、20世紀後半に爆発した情報革命は、21世紀型の金銭市場経済を創出した。この情報革命による金銭市場では、今までの時間価値は全く通用しなくなったのである。当然、そこで生きる人達の幸福感も全く違ったものにしまった。その市場経済、金さえ手に入ればという極めつけ、それがレバレッジ効果を最大限活用したサブプライムローンである。レバレッジというモノという実態を伴わない虚構市場が創出したゴール、それが100年に一度の経済危機といわれているものの実態である。
戦後、われわれが範としてきたアメリ型経済は、スピード・効率・倹約を追い求めてきた。ところで、移動時間を短縮するのは、何のため?情報伝達時間を短縮するは、何のため?かける時間は短く、時間当たりの量は拡大、しかも小人数、この体制は誰のためなのか?われわれはことのほか、せかされてきた、急がされてきた、虚構の市場の中で。さあここで、100年に一度の経済危機がおこり、日常の生き方に多くの警鐘となった。この経済危機を教訓として、第三企画は、より早く、より無駄なく、より正確にと活動し、そこで得た時間を、家庭、学修、仕事の三つの向上に振り向けることに貢献するのである。
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- 引用 RBAタイムズ 291号(2009)
戦後最大の危機的状況
「人格より金銭」の社会こそ危機
ビジネスは人格の触れ合う場
平成21年2月16日の内閣府発表による速報値では、昨年10-12月期のGDPは、年率換算でマイナス12.7%となっている。これは第一次オイルショック後の1974年1-3月期のマイナス13.1%に次ぐ下落幅という。それだけでなく、今年1-3月期のGDPの伸び率においてもマイナスが避けられないとの見方となっている。「自分の存在感を示すこと」(小心者の特長)に躍起になっている麻生総理の行動がチェンジしない限り、戦後初の4四半期連続のマイナス成長は免れないだろう。
世間を騒がせている派遣切り・リストラ問題は、身近な家庭のやりくりを直撃することとなる。これは即、消費の冷え込みとなり更なる経済の悪化をもたらすこととなる。この下り坂の世相になると当然にして守りに入らざる得なくなってくる。しかし何事もそうであるが、登りより下りが難しいものである。登山のプロは、下山するときにこそリスクが潜んでいることをよく知っていて、ペース配分や方向性について細心の注意を払うではないか。いま、まさに企業では、膨れた規模に合う売り上げを作るのにやっきになっている。また家庭においても、膨れた生活レベルの維持が難しくなってきている。そんな時、どう動いていくかが問われる。動き方は、出来事の捉え方であり、見方であり、考え方である。そして、これらは一人の人間によって成されているということ、それによって将来が決定するのである。
いまや、企業でも家庭でも「金銭」が思考の中心になってやしまいか。人格あるお客様を、売上高の数字と見てはいないか。そしてその量によってお客様を評価してはいないか。上は政治の世界、企業から、下は家庭そして個人まで、このような見方・考え方をもとに動いていないか。このような見方・考え方で現実に動くことになれば、経済の混乱の度は増すことすれ、収まることはあり得ないだろう。
この点においてこそ「戦後最大の危機的状況」だと痛感している。こんな現代社会だからこそ、第三企画は、ビジネスを人格ある人と接しゆく人間関係業と捉え、それに徹し、日々全力で生きている。お客様という人格ある人に接する姿勢を堅持するからこそ、自らも人格ある人に見られる。それが人間社会だと信ずるのである。
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- 引用 RBAタイムズ 290号(2009)
近説遠来
お客様の気持ちを第一に考える
「近きもの」=お客様あっての経営
論語に「近き者説(よろこ)べば、遠き者来たらん」とある。この言葉は、孔子が楚の国の葉公から「国を善く治める決め手は」との質問に対して答えたものである。「楚の国の人々が喜ぶような政治をすれば、遠い国々の人々が集まってくる。人が増えれば産業も盛んになり国も民衆も豊かになる。悪人も少なくなり国は善く治まる。」と私なりに理解している。
ところで、よく世間(経営学)では、経営資源といえばヒト・モノ・カネ・情報だという。果たしてそうであろうか?それでは人がいて、モノがあって、お金があり、情報があれば会社は経営されていくのか?私は経営資源を並べてみても大切なものは何も見えてこない、と考える。なぜなら会社経営は、お客様あっての行為と信じるからである。極論すれば、一人の人間であるお客様と一人の人間である社員=社長とから始まるのである。
私の経営する第三企画にとって一番の「近き者」は、お客様である。「遠き者」とは、まだ取引をしていただいていないお客様である。経営のすべてはお客様の「ありがたいと思いつつ受け入れる」という行為から始まる。そして、引き続き、会社の成長・発展のすべてを担ってくださるのもお客様なのである。
そのお客様は、喜怒哀楽の日々を生きている人間である。だからこそ、人の気持ちが何よりも優先されるべき大切なものなのだと、私は声を大にして言いたい。「高いから買わない!」「やすいから使う!」「よい商品だから買う!」「便利なサービスだから利用する!」と言い切れるだろうか?これらの判断基準だけではなく、ここにお客様の感情が加わり入ってくる。だからこそ、「高いけど買う!」「不便だけど利用する!」という一見逆の行為が現実のビジネスの世界には起こるのである。だからこそ私は、お客様の気持ちを第一に考える。極論で、一人のお客様と一人の社長、私とで取引が始まると言った。しかし、実際はお客様がまず始めに当社とコンタクトするのは社員の面々であって、社長の私ではない。
だからこそ、第三企画はお客様のところへお伺いする社員を第一にする。私たちを生かして下さるお客様だからこそ、会社を運営する毎月の経費をご負担下さるお客様だからこそ、また「近き者に説(よろこ)んでいただく」からこそ、である。これがご利用下さるお客様への当社流の感謝の気持ち。だから今日も、社員のために全力を尽くす一日を生きるのである。
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- 引用 RBAタイムズ 289号(2009)
自分ならではのD3
与えられた役目を担い日々に全力
夢=Dream ・ 躍動=Dynamic ・ 劇的=Dramatic
人生、先は闇である。しかし誰もが今の延長であると信じて生きている。明日を迎えられるのが奇跡的なことであるにも関わらず、何の思いもなく床についている。まさに、生きること全てが当たり前だと日々を過ごしている。
しかし私たちは違う!この世に人として生を受け、人間として生きられるこの現実に甘んじることなく、与えられた役目を全うしようと日々に全力を傾注する。これが私たちの道である。その道とは、易経に「形よりして上なるを道と為し、形よりして下なるを器と為す。」とあるが如く、形の無いもの(形而上)である。すなわち、形となったもの(形而下)はすでに器であって道ではなくなっているのである。
また、老子の第一章には、「語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名そのものではない。名づけえないものが天地の始まりであり、名づけうるものは万物の母である。だから、意図をもたない者が「道」に驚き、意図ある者はそのあらわれた結果しか見れない。この二つは同じものである。これらがあらわれて以来、名を異にする。この同じものは神秘と呼ばれ、神秘から神秘へとあらゆる驚きの入口となる。 (張鐘元著・上野浩道訳『老子の思想』より) 」ということである。私はこの「玄」(神秘)は黒くて観ることができない玄妙なもの、人生そのものと受け取っている。
だからこそ、私たちは人生という暗闇に向かっての航海の羅針盤として、「夢=Dream・躍動=Dynamic・劇的=Dramatic」を掲げ第三企画という人間集団を形成しているのである。ここでいう夢とは、「一寸先は闇」であるとの言葉を「はっきりと見えないさま」と解釈し、だからこそ「想い通りの日々を過ごすために、この世に人として生まれてきた」と人生を位置づけている。しかし、このままでは単なる我が侭となるので、歯止めとして「人の前に明かりを灯す」との理念を掲げているのである。
ここから第三企画流の「社員第一主義」が生まれ、明かりを灯しゆく社員の総和としての第三企画の社業があるのである。形而上の第三企画の理念と、形而下の社業を為す第三企画という器、この二つは老子の言葉にもあるように名は異にするが同じものである。これこそが社会的責任といわれているものの姿と確信している。このように、私たちが生きている世間は、見えない精神は見える形となってあらわれてくるという厳しい因果律の世なのである。だからこそ、社会という舞台で自分ならではの人生を演ずるのである。今年もこの道を力強く歩み続ける第三企画であることを、気持ちも新たに誓う次第。
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- 引用 RBAタイムズ 288号(2009)
自我=セルフ=エゴ
西洋主義に堕した西洋主義
“自助”見倣った日本、綻びも当然
「可愛がっていた子犬を殺された」といっては関係官庁のトップやその家族を刃にかける、「経営が厳しくて、つい…」と殺虫剤や発がん性のカビ毒に汚染された事故米を転売する、こんな現代社会だからこそ目先のことを憂いていても事態はよくならない。何事も根からの解決を目指さなければならない。西洋社会と異なり、文化の基本が「個人」ではないところに日本の特徴があると前号で述べ100年に一度の経済危機と言われている現象についても、経済の面からではなく、この現象の原因となっている西洋社会を成立させている西洋文化の骨格である個人主義の価値観から見ていこう。
ここでいう西洋個人主義とは、私に言わせれば自分中心主義である。自分(自己)とは、意識や行為をつかさどる主体ある。言い換えれば、自我である。この自我を英語ではselfといい、ラテン語ではegoという。たしかに、個人主義と利己主義は別物である。しかし、利己主義の定義である、「自分の利益を最優先にし、他人や社会全般の利害など考えようとしない態度。身勝手な考え方」そのものに今の社会がなっていないだろうか。すなわち個人主義とは、利己主義(エゴイズム)の異名といても過言とはならない。
個人主義の社会では、個人が自由で独立する存在であるからこそ、同じ個人である他人は、自分の自由と独立を脅かす存在にもなる信頼できない個人、と映るのである。だからこそ、人は自分の自由と独立を確保・維持するため自分以外の人達を、自分を脅かさない他人という関係に固定すべく「契約」という制度を作り、ギブアンドテイク(妥協・譲歩)という互酬制度を作り上げた。
つまり西洋社会は、個人主義・契約主義・互酬主義という三大主義をもって成り立つ社会なのである。そして個人主義の骨格を成すものが「自助」である。この自助を成立させるためにも契約・ギブアンドテイクという道具が必要となる。この道具を使って個々人が自助の連携をするために集団化したものが、西洋社会の実態である。だからこそ西洋社会最も重んじられるのが、自助・自己責任・自己管理なのであって、これを個人レベルから集団レベルへと強めたのが国家である。その力を更に強めるために、国家間では条約(NATO等)を作っているのである。そんな西洋社会の個々とは、個人をベースにしていない日本は全く異なる国なのである。その日本において、西洋の個人主義をもって国家運営を行ってはほころびが生じるのも当たり前である。だからこそ、100年に一度の金融危機をまともに受けることになったのである。
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- 引用 RBAタイムズ 287号(2008)
評価社会と間人主義
人と人との間に自然がある社会
「和を以って尊し」が日本の文化
現代社会を「評価社会」といっても過言ではない。見渡せば、幼稚園から始まって大学・会社へと…更には会社に入ってからは退職のその日まで業績に追いまくられる。まさに終わり無き評価人生である。
そこで重くのしかかってくるのは評価による善悪・勝ち負け・高低等の二極化である。このような社会に暮らすのであるから、人々が内にこもるのも考えてみれば当然のことともいえる。評価社会ゆえ、失敗は評価が下がることになりかねない。一人で悩まなくていいことも他人に打ち明ければ、これまた評価が下がることになりかねない。全く心休まる所も時もない。それが現代社会が欝病的社会となっている問題なのである。社会におけるほころびが個人に降り掛かり、日常生活に置ける欝的状況をもたらしているのである。
ところで、文化は人によって形となって現れてくるものである。西洋に西洋の文化があるように、日本は日本の文化がある。人間が一人で二足歩行が出来ないように(人が二足歩行出来るようになるためには、それ相応の努力、すなわち教育と訓練が必要とされる)、それぞれの国には二足歩行同様、言葉を含め、身体を張って個人に伝えられる生活方法がある。個々人におけるそれらの総称がそれぞれの地域における文化と言われているものである。
その文化の基本が「個人」ではないところに日本の特徴がある。狩猟により生活を成り立たせる西洋の社会が個人から始まるのに対し、稲作中心の農耕により生活を成り立たせる日本は、個人と個人の間にある「間」から始めなければならないという事情があった。すなわち、人と人の間にある自然(農耕による収穫)が命をながらえさせてくれるという事実を見据えてこそ人は存在できる、という視点が日本の文化の基本となったのである。
その年々における収穫の状況が、そこで暮す人間に直接影響を与えるという関係性があって、それが人間の生活の基本となったのが日本である。日本の文化を成している個人は、あくまで、自然の一部である農耕という作業を中心としたその周りに存在する人間という関係の延長にある。いかなる場合も自然を間に置いた人と人の繋がりが人の在り方を作ってきた。それがこの国、日本である。これは限大教授だった浜口恵俊の唱えた間人主義の私なりの捉え方である。
だからこそ周りの人との関係を常に気にし、その関係の中に自分の在り方を見つけようとするのである。正に「和を以って尊し」とする間人主義、これが日本の風土文化である。この文化こそ第三企画の生き方である。
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- 引用 RBAタイムズ 286号(2008)
「我執を絶つ」と地球の意思
目の前に全力尽くし天命を待つ
過剰な自我を出さない品位尊ぶ
論語に「子絶四、母意、母必、母固、母我=子四を絶つ。意母(な)く、必母(な)く、固母(な)く、我母(な)し」(卷第五、子罕第九)とある。すなわち、孔子は常人の陥り易い四つのものを断ち切って、きわめて円満であった。
四つとは、主観的な私意、必ずやり通そうとする無理押し、頑固に自分を守り通そうとするかたくなさ、自分のことだけを考える我執、である、と。私達現代社会を生きるものとしては、耳の痛い話しである。なぜなら私達の目の前に氾濫しているネット・書物等における情報の多くは、①欲しいものを手に入れなさい、その方法は云々、②夢をでっかく持つべきである、そして夢を追いかけなさい、③何であれ、内容問わず主張しなさい、主張することは個性的である、だから個性的でありなさい、④とにかく頑張りなさい、頑張らなければ負け組となりますよ、というものである。まさに私達の人生とは、論語と逆で「意に起こり、心に遂げ、固に固まって、我に成る。」である。ここでいう「意」と「必」は事前に位置し、「固」と「我」は事後に位置している。すなわち私達自分自身の生は、「意と必」「固と我」の中間(=自分)に位置(自身)しているということである。そして、「我」が新たな「意」を生じさせるというサイクルによって形成されるスパイラルの上に人生が展開されている。この繰り返しの積み重ねが、私達の人生を作っているのである。
第三企画では、人は変化し成長もするが、何かの目標や方向に向かって一直線に成長や進歩を遂げるというわけではないと見切って、生きるということに過剰な自我を出さない、と戒めて日々の経営に臨んでいる。それが第三企画の「品位」である。「夢や目標」・「願望や失望」を追いかけ、求めすぎる行為は、現実という「今」から目を逸らす危険性を孕んでいる。挑戦する自分の感情に飲み込まれ(自分の感情を過大・過小評価しすぎて)自分自身を見失うことになりかねない。特に「百年に一度あるかないかの規模の信用市場大波乱」の津波が押し寄せてきている現代社会においてはなおさらである。ここに第三企画が「品位」を重んじるゆえんがある。私達が暮らしている世の中は、決着のつかない出来事・感情ばかりといっても過言ではない。
そんな現代だからこそ、孔子のいう四を絶って目の前の事柄に全力を尽くし天命を待つ日々を送るのが地球の意思に沿うことになる。だからこそ、自分を優先させないことが「自分自身を生きる」ことに繋がるという逆説が成り立つのである。地球の意思に沿っていれば、いかなる出来事にも耐えられる。第三企画はそういう存在たることを標傍している。
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 285号(2008)











