第三企画HP (550)
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第三企画は、NPO 法人RBA インターナショナルともども、不動産業界の繁栄と発展と相互親睦のために、日々の業務・活動に全力投球してまいりました。そのひとつの表れが日本不動産野球連盟RBA 野球大会の開催であり、またRBA 女子会の開催でもあります。今般ご案内します「RBA プラザ」も、この延長線上にある取り組みでございます。
いよいよ平成27年♪月♪日、『RBA プラザ』が、新宿アイランドの1階に開設する運びとなりましたので、ここにご案内申し上げます。
『RBA プラザ』は、お客様にマッサージ・ビューティートレーニング・フラワーアレンジメント・ネイル・英会話等、仕事・暮らしを豊かにする様々なサービスをご用意します。あわせて、セルビアコーヒーに親しんでいただける憩の場所としても、ご活用いただけるものと存じます。
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不易流行の日々①
来る者拒まず去る者追わず!
そして、来る者に希望を 去る者に幸運を!
会社を経営していると、人の心が移り変わることはごく当たり前に経験することである。ある時、そんな生々しい現状を消化できなくて母に相談した。その時の話しで今も覚えている言葉が「去る者追わず」である。
「死生命あり、富貴天に在り(人間の生も死も、はたまた貧富、貴賎も、すべて天命であって、個人がどうすることも出来ないものだ)」(論語)とは、悪い兄をもった司馬牛の嘆きに対して子夏が悟した言葉である。人間は動物の一種、動く生き物である。しかし身体だけではなく、心の状態までもが動き回ってしまうから困ることになる。その「動き回る心の状態」を「気持ち」という。決意する不動の心とは別に、目に接するモノによって変わりゆく心の表れようが気持ちである。宣伝文句ではないが、「分かっちゃいるけど止められない!というねじれ現象。心で固く決めただけに、止められない言い訳をさがす自分の気持ちに腹が立う。誰もが少なからず経験することである。
そんな私たちは手にできないと分かりながらも、お金に囚われ、車に囚われ、地位に囚われ、名誉に囚われ、家族に囚われ、メンツに囚われる。世の中を見渡してみても、経済界の頂点に君臨したにも関わらず、欲に目がくらみ夕立の如く流れ去っていく人が何と多いことか。また最初はやる気満々の意思表示をしながら、年月が経つと自らの言動を翻し、やらないことを正当化する輩(やから)が後を絶たない。流行とは、「一時」的に広く世間に受け入れられることである。その「一時」に沿って動き回るものが私たちの気持ちである。やる気が旺盛の時は良い環境と判断しても、やる気が衰退すると悪い環境だと判断してしまうのが気持ちの動き。その環境は、善悪などないひとつのモノであるにも関わらず、である。このように私たちが生きるということは、あらゆる物事に囚われ追いかけ回すことだといっても過言ではない。しかしどのような人も心は悪くない。ただ動き回る気持ちに振り回されているだけである。「罪を憎んで人を憎まず」ではないが、「振り回されている気持ちを哀れみ、人を憐れむな」である。今日も不易流行の日々を生きると誓う次第だ。
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 272号(2008)
2008年「善進する第三企画」
過剰な自我を出さない
それが自分自身を生きること
論語「子罕第九」に「子絶四、母意、母必、母固、母我=子四を絶つ。意母(な)く、必母(な)く、固母(な)く、我母(な)し」とある。すなわちこの四つは、①主観的な私意②必ずやり通そうとする無理押し③頑固に自分を守り通そうとするかたくなさ④自分のことだけを考える我執―――である。孔子は常人の陥り易い四つのものを断ち切って、きわめて円満であったという。
私たち現代社会を生きるものとしては、耳の痛い話である。なぜなら私たちの目の前に氾濫しているネット・書物などにおける情報の多くは、①欲しいものを手に入れなさい。その方法は… ②夢をでっかく持つべきである、そして夢を追いかけなさい③何であれ内容問わず主張しなさい、主張することは個性的である。だから個性的でありなさい④とにかく頑張りなさい、頑張らなければ負け組となりますよ―――以上の四つそのものである。まさに私たちの人生とは、「意に起こり、心に遂げ、固に固まって、我に成る」である。ここでいう「意」と「必」は事前に位置し、「固」と「我」は事後に位置している。すなわち私たち自分自身の生は、「意と必」「固と我」の中間(=自分)に位置(=自身)しているということである。そして、そのサイクルによって形成される「我」が新たな「意」を生じさせるという人生のスパイラルの上に展開されているということでもある。日々忙しく過ごすこの繰り返しの積み重ねが、私たちの人生を作っているのである。
ゆえに第三企画では、①人は変化し成長もするが、何かの目標や方向に向かって成長や進歩を遂げるというわけだけではない②生きるということに過剰な自我を出さないことが第三企画における「品位」である―――と定め、日々の経営に臨むものである。なぜなら、私たち人間の「夢や目標」を追いかけ過ぎる行為は、現実という今から眼を反らすことにつながりかねない危険性を孕んでいるからである。当然、個人においても、そんな挑戦する自分の感情に飲み込まれ(自分の感情を過大評価し過ぎて)自分自身を見失うことになりかねないからである。そんな私たちが暮らしている世の中は、決着のつかない出来事・感情ばかりといっても過言ではない。だからこそ、自分を優先させないことが自分自身を生きることにつながるという逆も成り立つのである。
それが2008年第三企画が「善進」を掲げ「自分自身」に生きる理由である。
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 270号(2008)
「番外編」
他方を知っていて一方を知らない
一を識りて二を知らず
(一つのことだけを知っていて、その他のことを知らない。知識や考え方が極めて狭いたとえ)
【荘子】
続・性格は変えられない?!
「心に善悪有りや否や」との問いに答えた興味深い言葉がある
「天にあてはめれば『命』といい、
物にあてはめれば『理』といい、
人にあてはめれば『性』といい、
一身にあてはめれば『心』という
このように実質は、一つである
心は元来が善でありそれが心の働きに現れると
善ができ不善ができる
心の働きが外に現れる場合は、
“情”という事はできても“心”とはいえない
例えば、水は水といえるだけである、
しかしそれが流れ出し支流を作り東や西に行ったりすれば、
水といわず“流れ”と言うようなものである」
私達がいう性格とは「感情や意志」を指している
感情とは、喜び悲しむ心の働きであり
意志とは、積極的に目指す心の働きである
ここで早くも性格は、二つに分かれている
荘子のいう「一を識りて二を知らず」とは
一方だけを知っていて他方を知らないことを戒めた言葉である
ということは、他方を知っていて一方を知らないこともある
いわゆる「性格を変えられない」
と言っている人は他方に明るく、一方すなわち自分に暗い人なのかも知れない
この場合においても「性格は変えられない]というでは、
もう一方を知ればどうなるのか?新たな性格が現れてくるということにならないのか
さて貴方は、今も 「性格はひとつ」と想いますか?
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 番外編2(2007)
「番外編」
経験していない反応はあり得ない
一を識りて二を知らず
(一つのことだけを知っていて、その他のことを知らない。知識や考え方が極めて狭いたとえ)
【荘子】
性格は変えられない?!
性格は変えられない!と言われ
性格は変えられる!とも言われている
そもそも性格の「性」とは、心が立っている状態の生
人が起きている間に(物事に出会う度に)働く心の働き
その働きが他の人と比べて際立つ様を見て私達は性格と言っている
総じて性格とは、
「その人が生まれつきもっている感情や意志(性質)などの傾向」
と辞書に書かれるようになった
そして、「三つ子の魂百まで」とも言われている
幼児の性質は一生変わらないものだという
ここでいう性質は、言動に現れるその人に
備わったものを指している言動であるから、
その人の発する言葉と行動である
それらは、出会いごとにその身体の内から
湧き上がりくるものである
とする性格とは、
経験による反応と言い換えてもおかしくはない
ここで大事な事は、
「経験していない反応はあり得ない」
正に荘子して「一を識りて二を知らず」と
言わしめる如くである
経験していない反応はあり得ない
だから性格はひとつしかない
それを、人は変えられないという
もうひとつの性格を知りたければ
新たな経験をすればいい…
ただそれだけで性格は新たになる
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 番外編1(2007)
“諸行無常”
与えられた寿命を価値あるものへと転換しゆく
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」
【平家物語】
人生、諸行無常の先を目指して
私達の社会生活には家族が在り、会社が在り、仲間が在る。
そしてすべては諸行無常である。
時は家庭内の変化を招き寄せ、会社では定年を運んでくる。仲間は、時のうつろいとともに自らの意思に反し入れ替わる。世間では、存在する万物で変わらないものはない。古来より言い伝えられてきた「万物流転の法則」がこれである。建物は壊される為に建ち、人は別れる為に出会いがあり、会社における幹部は変る為に就任する。個人の生活でいえば、今に全力する人にもやがて人としての魅力はなくなり、目先の成果に集中する人に目指す未来は訪れない。ましてや家庭だけの人に、社会的な充実と個人的な満足は遠のいていく。
人生における悟りとは、諦念とは、諸行無常を受け入れることである。だからといって、ハイそうですかと言っていられないのが人間である。それがゆえに、もがき苦しみ、工夫しながら生きるのである。その結果、自分の立ち位置を見失い、彷徨う人が後を断たないのも事実である。今を失わないために今にしがみつき、雑念を払いのけようと耳を塞ぐことに全力を尽くす。未来の事など気にする暇はなく、ただひたすら今の帳尻を合わせることに勤しむ。そして先行き不安を隠したまま今を生きる。
しかしである。定年も、結婚も、家庭も、仲間も、人生という寿命までは長くない。だからこそ、せめて寿命までの日々の充実を目指そうと私は決意している。第三企画もRBAも、そんな諸行無常である人生を充実させるために天が用意してくれたものであり、そこでお会いする皆様方との出会いは天が用意してくれたものと解釈している。これまでお会いいただいた皆様方、そしてこれからお会いさせていただくことになる皆様方に改めてよろしくと申しとげる次第。これからも全力で、一回しかない人生という与えられた寿命を価値あるものへと転換しゆくために、僕は頑張ります。
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 267号(2007)
父の“言葉”
“求めて得たものでないからこそ本物”
流れのままに生きる
今も耳に聞こえる父の、言葉
とにかく、やることだ!
やる限りには興味を持ってやれ!
自分の力無さを、思い知らされるから!
何度も同じ事をしていると怒られた
なんで工夫しない!同じ経験するんだったら、工夫しろ!
「こうやっていこう!」と思わないのか?阿呆か!馬鹿なら馬鹿になってみろ!
同じ事をやるのは、愚か者のすることだ!
的を外してもいい、遅くてもいい
同じ事を新しいやり方でやってみろ!
眼鏡から目をはみ出しながら
鬼の形相で機関銃の如く
そんな父が恐くて、無我夢中でやってきた
すると知らないうちにこんな僕になってしまった
今も父は僕の身体に染み付いている
誰の真似をするのでなく
自分らしくやり切ること
それをやれば、やるほど
自分を主張する事だから
またある時
無我夢中でやっているのはいいが
お前は、何のためにやっているんだ!
やる事が目的なのか?どうなんだ!と言われてきた
やるせなかった
思いの持っていき場所がなかった
ただ母の優しさが身にしみた
そんな父は今僕の身体に生きている
やる限りには、ただやるな!
目的を見据え最短を走れ!
何時もその為の工夫をしろ!
人生に無駄はない
経験できるものはすべて自分のため
それを信じること
その生き方が、自分を信じる事であり他人を信じる事
人間が生きるということは
相手を大切にする事であり
目の前の人を大切にすること
そして現在
「人の前に明かりを灯す」第三企画の経営に全力を尽くしている
「求めて得たものでないからこそ本物」
これからも育てられたように、全力で久米信廣を生き抜いて征く
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 266号(2007)
“何のため”
何万年もの前から受け継がれきた命
僕の命
僕は、幸せにも人間に生まれきた
たくさんある命の中、人間の生を受けることができた
この世は連関の世、ならば必ずこの命には意味がある
僕の命は、何万年もの前から受け継がれきた命
決して僕一人のものではないと受け止めている
だから、命ある限り感謝あるのみと生きてきた
ある時までは、
何万年もの間つないでくれた人達に対して感謝の毎日であった
そしてある時から、300年後に生まれくる子ども達に対しての想いの日々となった
感謝は、有り難いことへの御礼から、
今ある命の使い方(使命=報いる日々)へと昇華した
僕は、食事しなければ生きていけない
沢山の草木や動物達の尊い命により生き存えている
僕のために草木と生まれ、魚と生まれ、動物と生まれ、
今僕となっている
今の僕は、そんな動植物達へ感謝しなければならない
動植物達からもらったこの命、
今も生きられているこの命
どんなことがあっても無駄にしてはならない!
その想いが僕に「何のため」の哲学を贈ってくれた
そして
僕の命を生き存えさせてくれている動植物達のためにも
僕は幸せにならなければならない、と想えるようになった
だからこそ、その幸せは永遠に崩れないものでなければならない!
だからこそ、他人の不幸の上に幸せを築いてはならない
だからこそ、周りの人達の幸せの上に自らの幸せを築かなければならない
そこから僕の命は、
「人の前に明かりを灯す」日々となった
そして、「人による」との哲学も形を成してきた
そして、「共鳴」のエネルギーが
第三企画を誕生させてくれた
そんな第三企画は、君との出会いをもたらせてくれた
だから僕は、君の幸せのために生きる
それが僕の命となってくれた、動植物達へ報いることと信じられるから……
僕の命をつないできてくれた人達のために報いることと信じられるから……
君の幸せが、君の家族の幸せを創り、
社会、国、世界の幸せを創る原点だから
僕の命は、君の幸せのために在る
それが僕の「何のため」だから
今日も、君の前に明かりを灯しゆくのだ!
だから今日も、明るく、元気に、朗らかに
僕の生命は、平和に向かう行動者であり続けるのだ!
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 265号(2007)
家族
僕の人生(一回しかない人生今在る恩)
家族は私そのものである。
父は厳しく
居心地はよくはなかった
母はうるさく
気の休まる時がなかった
しかし、いつもちゃんと居場所はあった
よく喧嘩し助け合いもした
世界で二人しかいない兄弟
仲良くする事が人生の役目と育てられた
そんな家族があってこその僕である
父・母には、
人類と平和の為に生きよ!と育てられた
武士の子らしく生きよ!と
見えない糸で縛られ続けたそんな日々の積み重ねが、
第三企画の出会いをもたらせてくれた
だからこそ
今まで、家族に大切にしてもらった分
ずっと、家族を大切にしている
そんな矢先、父は天に還ってしまった
父からしてもらった恩返しは、まだできていない
だからこそ、墓前で300年後への恩返しを誓った
きっと父も分かってくれるはず、と信じて
これからも今まで以上に全力で生きる!
父の教えを左手に、母の教えを右手に
一回しかない僕の人生を
人類の幸せのために…
世界の平和のために…
今、第三企画に集うすべての家族のために……
それが僕の人生のすべてだから……
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 264号(2007)
“自分”とは “人生”とは
原点に還るときかもしれない
人生はギャップの中にある
「ちょっと考えて」見て下さい
さて貴方は、自分の「自」をどう読んでまずか?もし「自(=みずか)ら」と読んでいたら矯正する必要があるのかも?なぜなら、自らと断定すると何事も自分で決めていい事になるからです。
何を知ろうとするかは自分次第。何を経験するか決めるのも自分次第。これだと、みんな自分の好きにしちゃいますよね。主体である本人がいかなる存在かに関係なく、その時々に他人と比較し欲しいもの、好きなものを入れる。果たしてこれで幸せになれると考えられますか?
前号で人生とは、インプットしたもののアウトプットであると……。教育は学校にお任せ、生活費はご主人頼り、そして自分は若作り。嫌な事には顔を出さず、資格に実力をすり替え、自分は趣味に走る。こんな現実は、どんな自分を基準にしたら可能になる?そもそも、形あるものにはそれぞれの機能がある好きなもの、欲しいものを組み合わせれば機能不全を招く事も。そう私たちの言う「不幸」とは、この機能不全に他ならない。
止まれ現代人。本来、自分の自とは「自(=みずか)ら」ではなく「自(=おの)ずから」だった。
そして「分とは、分け与えられた性質・身の程・力量(=分)」を指す言葉である。これらから、自分とは分際(=その人に応じた限界身の程)の異名となる。自分とは、もとから持っているものの(在り方の)ままということ。だとすると、そろそろ原点に還る時かもしれない…。「ヒューマンブックス」(第三企画発行)より転載
せめぎあい
生きること。
それは、「理想と現実」と「理論と事実」。この「せめぎあい=鬩ぎ合い」である。そして「鬩ぐ」とは「(あらそう)に、(子ども)」による会意文字。漢字を結合し、それらの意味を合わせて書き表す方法。
「信」とは、「人」と「言」を合わせた会意文字。=疑わずに本当だと、心の中に強く思い込むこと。同様に「鬩」とは「ゆずらない、こども」である。私たちの人生は理想と現実のギャップの中にある理論と事実のギャップの中にある誰にも心当たりがある。それは、嘘をついた事。真実を言わなかった事。
ということは…私たちの眼前に現れる「事実と現実」果たしてそれは「真実」と言えるのか?理想とは、「考えられる限りのもの」である。理論とは、「事実による体系的知識」である。
ちょっとまった!現代人の「人生」って……?真実を無視した観念の遊戯?
「ヒューマンブックス」(第三企画発行)より転載
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 263号(2007)
人生の理想
止まれ 現代人!
“インスタントに頼るな”
人生の理想、持ってますか?
私たちは、飲まなければ生きられない
食べなければ生きられない
そして、呼吸しなければ生きられない
しかし多くの人は、これらのことを忘れ
健康のためといい、体を鍛える運動を心がける
(排気ガスが充満する車道を、走る人たちがいる)
それに飽き足らず、サプリメントづくしの日々?
(ダイエットなのか食事を制限しながらの栄養剤)
これらに走る人達は、要注意!
さては、肉体だけが成長した人達なのか?
考えることを忘れた人達なのか?
それとも完全に消費者としてプログラムされた人達なのか?
とはいっても………健康への不安は少ない
それなりに、充実する日々を過ごしてはいる
もちろん、大事な事や、重要な時は考え判断を下している
しかし、時折心の隙間に襲い来る不安と空虚の正体は何なのか
身体だけ鍛えれば、目的とする栄養だけを摂取できれば
何事も簡単に手にできればと、インスタント情報の吸収に走る
形があり、目に見えるモノから得られるエネルギーには限りがある…
止まれ現代人!
一回しかない人生を、生きていくエネルギーをお持ちですか?
そして、その正体をご存知ですか……
欲望・目的は外からやってくる
私達人間は、不幸になる為に努力できる生き物でもある
また、周りから不幸といわれても幸せと言える生き物でもある
そんな私達は、努力する事は知っている
そして、競争する事も知っている
だからこそ、他人と比較して生きられる
現に、今も生きている
そこで知らなければならない事がある
私達は、一人では何も出来ない生き物だという事
私達は知らないものを欲しがることができない生き物
また、経験しないものへの目的を持つ事もできない生き物
そんな私達の日常は、インプットしたモノのアウトプット作業
入れたモノ以外は出しようが無い
だから挨拶で分かる、身なりで分かる
態度で分かる、表情で分かる、言葉遣いで分かる
そう私達は、口・目・耳・鼻・肌からしか入れられない
食べ物にこだわるように、見るものにもこだわってあげよう!
聞くものにも、香りにも、身体全体にもこだわってあげよう!
その時、果たして今と同じ人たちが貴方の周りにいるだろうか?
「友は第二の我なり」(アリストテレス)とは至言である
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 262号(2007)











