Daisan Kikaku Inc.
 

近説遠来

お客様の気持ちを第一に考える
「近きもの」=お客様あっての経営



論語に「近き者説(よろこ)べば、遠き者来たらん」とある。この言葉は、孔子が楚の国の葉公から「国を善く治める決め手は」との質問に対して答えたものである。「楚の国の人々が喜ぶような政治をすれば、遠い国々の人々が集まってくる。人が増えれば産業も盛んになり国も民衆も豊かになる。悪人も少なくなり国は善く治まる。」と私なりに理解している。


ところで、よく世間(経営学)では、経営資源といえばヒト・モノ・カネ・情報だという。果たしてそうであろうか?それでは人がいて、モノがあって、お金があり、情報があれば会社は経営されていくのか?私は経営資源を並べてみても大切なものは何も見えてこない、と考える。なぜなら会社経営は、お客様あっての行為と信じるからである。極論すれば、一人の人間であるお客様と一人の人間である社員=社長とから始まるのである。
私の経営する第三企画にとって一番の「近き者」は、お客様である。「遠き者」とは、まだ取引をしていただいていないお客様である。経営のすべてはお客様の「ありがたいと思いつつ受け入れる」という行為から始まる。そして、引き続き、会社の成長・発展のすべてを担ってくださるのもお客様なのである。


そのお客様は、喜怒哀楽の日々を生きている人間である。だからこそ、人の気持ちが何よりも優先されるべき大切なものなのだと、私は声を大にして言いたい。「高いから買わない!」「やすいから使う!」「よい商品だから買う!」「便利なサービスだから利用する!」と言い切れるだろうか?これらの判断基準だけではなく、ここにお客様の感情が加わり入ってくる。だからこそ、「高いけど買う!」「不便だけど利用する!」という一見逆の行為が現実のビジネスの世界には起こるのである。だからこそ私は、お客様の気持ちを第一に考える。極論で、一人のお客様と一人の社長、私とで取引が始まると言った。しかし、実際はお客様がまず始めに当社とコンタクトするのは社員の面々であって、社長の私ではない。
だからこそ、第三企画はお客様のところへお伺いする社員を第一にする。私たちを生かして下さるお客様だからこそ、会社を運営する毎月の経費をご負担下さるお客様だからこそ、また「近き者に説(よろこ)んでいただく」からこそ、である。これがご利用下さるお客様への当社流の感謝の気持ち。だから今日も、社員のために全力を尽くす一日を生きるのである。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 289号(2009)

自分ならではのD3

与えられた役目を担い日々に全力
夢=Dream ・ 躍動=Dynamic ・ 劇的=Dramatic



人生、先は闇である。しかし誰もが今の延長であると信じて生きている。明日を迎えられるのが奇跡的なことであるにも関わらず、何の思いもなく床についている。まさに、生きること全てが当たり前だと日々を過ごしている。


しかし私たちは違う!この世に人として生を受け、人間として生きられるこの現実に甘んじることなく、与えられた役目を全うしようと日々に全力を傾注する。これが私たちの道である。その道とは、易経に「形よりして上なるを道と為し、形よりして下なるを器と為す。」とあるが如く、形の無いもの(形而上)である。すなわち、形となったもの(形而下)はすでに器であって道ではなくなっているのである。
また、老子の第一章には、「語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名そのものではない。名づけえないものが天地の始まりであり、名づけうるものは万物の母である。だから、意図をもたない者が「道」に驚き、意図ある者はそのあらわれた結果しか見れない。この二つは同じものである。これらがあらわれて以来、名を異にする。この同じものは神秘と呼ばれ、神秘から神秘へとあらゆる驚きの入口となる。 (張鐘元著・上野浩道訳『老子の思想』より) 」ということである。私はこの「玄」(神秘)は黒くて観ることができない玄妙なもの、人生そのものと受け取っている。


だからこそ、私たちは人生という暗闇に向かっての航海の羅針盤として、「夢=Dream・躍動=Dynamic・劇的=Dramatic」を掲げ第三企画という人間集団を形成しているのである。ここでいう夢とは、「一寸先は闇」であるとの言葉を「はっきりと見えないさま」と解釈し、だからこそ「想い通りの日々を過ごすために、この世に人として生まれてきた」と人生を位置づけている。しかし、このままでは単なる我が侭となるので、歯止めとして「人の前に明かりを灯す」との理念を掲げているのである。


ここから第三企画流の「社員第一主義」が生まれ、明かりを灯しゆく社員の総和としての第三企画の社業があるのである。形而上の第三企画の理念と、形而下の社業を為す第三企画という器、この二つは老子の言葉にもあるように名は異にするが同じものである。これこそが社会的責任といわれているものの姿と確信している。このように、私たちが生きている世間は、見えない精神は見える形となってあらわれてくるという厳しい因果律の世なのである。だからこそ、社会という舞台で自分ならではの人生を演ずるのである。今年もこの道を力強く歩み続ける第三企画であることを、気持ちも新たに誓う次第。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 288号(2009)

自我=セルフ=エゴ

西洋主義に堕した西洋主義
“自助”見倣った日本、綻びも当然



「可愛がっていた子犬を殺された」といっては関係官庁のトップやその家族を刃にかける、「経営が厳しくて、つい…」と殺虫剤や発がん性のカビ毒に汚染された事故米を転売する、こんな現代社会だからこそ目先のことを憂いていても事態はよくならない。何事も根からの解決を目指さなければならない。西洋社会と異なり、文化の基本が「個人」ではないところに日本の特徴があると前号で述べ100年に一度の経済危機と言われている現象についても、経済の面からではなく、この現象の原因となっている西洋社会を成立させている西洋文化の骨格である個人主義の価値観から見ていこう。


ここでいう西洋個人主義とは、私に言わせれば自分中心主義である。自分(自己)とは、意識や行為をつかさどる主体ある。言い換えれば、自我である。この自我を英語ではselfといい、ラテン語ではegoという。たしかに、個人主義と利己主義は別物である。しかし、利己主義の定義である、「自分の利益を最優先にし、他人や社会全般の利害など考えようとしない態度。身勝手な考え方」そのものに今の社会がなっていないだろうか。すなわち個人主義とは、利己主義(エゴイズム)の異名といても過言とはならない。
個人主義の社会では、個人が自由で独立する存在であるからこそ、同じ個人である他人は、自分の自由と独立を脅かす存在にもなる信頼できない個人、と映るのである。だからこそ、人は自分の自由と独立を確保・維持するため自分以外の人達を、自分を脅かさない他人という関係に固定すべく「契約」という制度を作り、ギブアンドテイク(妥協・譲歩)という互酬制度を作り上げた。


つまり西洋社会は、個人主義・契約主義・互酬主義という三大主義をもって成り立つ社会なのである。そして個人主義の骨格を成すものが「自助」である。この自助を成立させるためにも契約・ギブアンドテイクという道具が必要となる。この道具を使って個々人が自助の連携をするために集団化したものが、西洋社会の実態である。だからこそ西洋社会最も重んじられるのが、自助・自己責任・自己管理なのであって、これを個人レベルから集団レベルへと強めたのが国家である。その力を更に強めるために、国家間では条約(NATO等)を作っているのである。そんな西洋社会の個々とは、個人をベースにしていない日本は全く異なる国なのである。その日本において、西洋の個人主義をもって国家運営を行ってはほころびが生じるのも当たり前である。だからこそ、100年に一度の金融危機をまともに受けることになったのである。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 287号(2008)

評価社会と間人主義

人と人との間に自然がある社会
「和を以って尊し」が日本の文化



現代社会を「評価社会」といっても過言ではない。見渡せば、幼稚園から始まって大学・会社へと…更には会社に入ってからは退職のその日まで業績に追いまくられる。まさに終わり無き評価人生である。
そこで重くのしかかってくるのは評価による善悪・勝ち負け・高低等の二極化である。このような社会に暮らすのであるから、人々が内にこもるのも考えてみれば当然のことともいえる。評価社会ゆえ、失敗は評価が下がることになりかねない。一人で悩まなくていいことも他人に打ち明ければ、これまた評価が下がることになりかねない。全く心休まる所も時もない。それが現代社会が欝病的社会となっている問題なのである。社会におけるほころびが個人に降り掛かり、日常生活に置ける欝的状況をもたらしているのである。


ところで、文化は人によって形となって現れてくるものである。西洋に西洋の文化があるように、日本は日本の文化がある。人間が一人で二足歩行が出来ないように(人が二足歩行出来るようになるためには、それ相応の努力、すなわち教育と訓練が必要とされる)、それぞれの国には二足歩行同様、言葉を含め、身体を張って個人に伝えられる生活方法がある。個々人におけるそれらの総称がそれぞれの地域における文化と言われているものである。
その文化の基本が「個人」ではないところに日本の特徴がある。狩猟により生活を成り立たせる西洋の社会が個人から始まるのに対し、稲作中心の農耕により生活を成り立たせる日本は、個人と個人の間にある「間」から始めなければならないという事情があった。すなわち、人と人の間にある自然(農耕による収穫)が命をながらえさせてくれるという事実を見据えてこそ人は存在できる、という視点が日本の文化の基本となったのである。


その年々における収穫の状況が、そこで暮す人間に直接影響を与えるという関係性があって、それが人間の生活の基本となったのが日本である。日本の文化を成している個人は、あくまで、自然の一部である農耕という作業を中心としたその周りに存在する人間という関係の延長にある。いかなる場合も自然を間に置いた人と人の繋がりが人の在り方を作ってきた。それがこの国、日本である。これは限大教授だった浜口恵俊の唱えた間人主義の私なりの捉え方である。
だからこそ周りの人との関係を常に気にし、その関係の中に自分の在り方を見つけようとするのである。正に「和を以って尊し」とする間人主義、これが日本の風土文化である。この文化こそ第三企画の生き方である。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 286号(2008)

「我執を絶つ」と地球の意思

目の前に全力尽くし天命を待つ
過剰な自我を出さない品位尊ぶ



論語に「子絶四、母意、母必、母固、母我=子四を絶つ。意母(な)く、必母(な)く、固母(な)く、我母(な)し」(卷第五、子罕第九)とある。すなわち、孔子は常人の陥り易い四つのものを断ち切って、きわめて円満であった。


四つとは、主観的な私意、必ずやり通そうとする無理押し、頑固に自分を守り通そうとするかたくなさ、自分のことだけを考える我執、である、と。私達現代社会を生きるものとしては、耳の痛い話しである。なぜなら私達の目の前に氾濫しているネット・書物等における情報の多くは、①欲しいものを手に入れなさい、その方法は云々、②夢をでっかく持つべきである、そして夢を追いかけなさい、③何であれ、内容問わず主張しなさい、主張することは個性的である、だから個性的でありなさい、④とにかく頑張りなさい、頑張らなければ負け組となりますよ、というものである。まさに私達の人生とは、論語と逆で「意に起こり、心に遂げ、固に固まって、我に成る。」である。ここでいう「意」と「必」は事前に位置し、「固」と「我」は事後に位置している。すなわち私達自分自身の生は、「意と必」「固と我」の中間(=自分)に位置(自身)しているということである。そして、「我」が新たな「意」を生じさせるというサイクルによって形成されるスパイラルの上に人生が展開されている。この繰り返しの積み重ねが、私達の人生を作っているのである。


第三企画では、人は変化し成長もするが、何かの目標や方向に向かって一直線に成長や進歩を遂げるというわけではないと見切って、生きるということに過剰な自我を出さない、と戒めて日々の経営に臨んでいる。それが第三企画の「品位」である。「夢や目標」・「願望や失望」を追いかけ、求めすぎる行為は、現実という「今」から目を逸らす危険性を孕んでいる。挑戦する自分の感情に飲み込まれ(自分の感情を過大・過小評価しすぎて)自分自身を見失うことになりかねない。特に「百年に一度あるかないかの規模の信用市場大波乱」の津波が押し寄せてきている現代社会においてはなおさらである。ここに第三企画が「品位」を重んじるゆえんがある。私達が暮らしている世の中は、決着のつかない出来事・感情ばかりといっても過言ではない。
そんな現代だからこそ、孔子のいう四を絶って目の前の事柄に全力を尽くし天命を待つ日々を送るのが地球の意思に沿うことになる。だからこそ、自分を優先させないことが「自分自身を生きる」ことに繋がるという逆説が成り立つのである。地球の意思に沿っていれば、いかなる出来事にも耐えられる。第三企画はそういう存在たることを標傍している。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 285号(2008)

300年後を目指して

今は我慢、「駅伝経営」に徹する秋(とき)
次世代に確実にバトンをつなぐ



アメリカ発のマネーゲームが発端となった金融危機が世界を覆い、この日本も漏れなく大地震が起こっている。政府は緊急対策に追われている。グローバル化を主導した国が震源地である故、当然と言えば当然のことである。主役が人間から経済にすり替えられたにしても苦しむのは当の人間である。そして誰が得をしたと言えるのだろう?グローバル化に合わせて、国を挙げて、「戦略十訓」(「道」前回号ご参照あれ)の思惑通り、我こそ一番になろうと、他人を押しのけ頑張る消費者へと全国民がマインドコントロールされてきた。それが日本である。そんな国に暮らす私達の日々に安心の家庭が出来るはずがない。生き甲斐に満ちた日々を過ごせるはずがない。希望に胸膨らませる子ども達が育つはずがない。殺伐とした社会になって当然である。お金や物を手にするために人の命を奪うことが日々のニュースで流れるような崩壊した社会が、消費大国日本である。
この国をリードしてきた指導者も、ことは深刻である。会社経営における後継者(二世)問題は日々の経営における大きな問題となって中小企業等を覆っている。そんな現実を打開するための政治を、二世・三世の政治家が執っている。これも「戦略十訓」の狙う総国民無能化が行きわたっている証左と考えられないだろうか?そう考えると、解決が見えない現状が理解できる。経営においては、中小企業も国も次元を同じくするといえよう。こんな現状を許しているからこそ、未だに企業の不祥事が後を絶たないのである。


そんな中わが第三企画は、300年後を目指しての経営に全力をあげている。現状、苦しい日々の連続である。しかし格好わるくてもいい、傷だらけで立ってるだけだと言われてもいい、何を言われても我慢して生き延びようと工夫している。まさになり振り構わずではあるが、第三企画はそうしなければならない使命がある。第三企画の理念と目指す目的を守り抜かなければ人類の未来はないと信じている。
今は、この社会を我が物顔で暴れまくる黒船経済の怪物に食われることなく生き延びなければならない。例えドンケツ(一番びり)であろうと、駅伝のように次の世代にバトンを繋ぐ経営に徹しよう。駅伝といえば、駅伝制は特命任務を帯びた朝廷の使者を中央から地方へ派遣するためのシステムとして始まったそうだ。私は次世代にバトンを繋くこの駅伝の使者を自認する。例えこの命をかけても!これこそ私の一本の矢である。


 

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  • 引用 RBAタイムズ 284号(2008)

我一本の矢にならん!

日本に押しよせた、“浪費への圧力”
今“圧力”撥ね返す矢を放つ時



米国で問題となっている「サブプライム」という言葉は、マーケティングの世界においては「信用リスクの大きい消費者である中低所得者」を指している言葉だと聞いている。それにならえば米サブプライムローンは、リスクという危険を承知した上であえて信用度の低い人達に向けて用意した住宅ローンである。このサブプライムローンに世界の金融機関が群がった。この日本では、確かな事実の裏付けをもってしても「信用リスク」が大きすぎると一般融資を断る日本の金融機関もその群がった一つである。さて、日本を牽引してきた会社に広告会社電通がある。その電通の中興の祖、吉田秀雄四代社長が説いたものに鬼十則がある。電通マンはこの鬼十則に叱喧激励され、電通は現在の地位を築いた。その電通は、「はっきり言って、間接的ではあるが、いま電通と関係のない日本人は、まず一人としていないのである。」とまで公然と言われる企業である。(植田正也氏著・電通「鬼十則」、PHP文庫)


この巨大な企業をつくりだした原動力が1970代の「電通戦略十訓」である。
これは、【1、もっと使わせろ。2、捨てさせろ。3、無駄使いさせろ。4、季節を忘れさせろ。5、贈り物をさせろ。6、組み合わせで買わせろ。7、きっかけを投じろ。8、流行遅れにさせろ。9、気安く買わせろ。10、混乱をつくり出せ。】というものだった。
実はこの戦略十訓は、米国人ジャーナリスト、ヴァンス・パッカードが1960年に著した「浪費をつくり出す人々」の7つの戦略をヒントとして作られたと言われている。その7つの戦略とは、「もっと買わせる戦略」「捨てさせる戦略」「計画的廃物化の戦略」「混乱をつくり出す戦略」「月賦販売による戦略」「快楽主義を植え付ける戦略」「人口増加を利用する戦略」である。また、そこにはこのように記されている。「アメリカ市民が日常生活でより浪費的になるように工夫している人たちは、われわれにより多く浪費させ、われわれを消費生活でより無分別で不注意にさせる。この圧力のもとで、われわれはどこに流れていくのだろうか。この浪費への圧力が、アメリカ国家と国民の行動、性格に及ぼす影響はどういうものだろうか。
私は、これが最も重要な問題だと思う。われわれはできるだけの同情と忍耐をもって、この問題を見きわめることにしよう。」これは米国で問題となっているサブプライムローンを予感させるに余りある。そしてこの懸念は、そのまま日本に当てはまる。だからこそ、この的に矢を向けることが必要な時期でもある。
我この一本の矢にならん!

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 283号(2008)

私の毎日

「当り前のことを疎かにする現代社会」
流れの早さで、自ら流れゆく日々



今の社会は、経済的に非常に苦しい時期である。もちろん社会全般に言えることでもある。いわゆる当たり前のことが当たり前でないという意味において苦しいのである。ごみが落ちているのを見つけたら、まずは拾ってゴミ箱に捨てる。これは当たり前のこと。子供に対して誰もが教える事柄。それに付け加えてごみのポイ捨てはいけないことを教える。こんな当たり前のことが疎かになっている。自分でしたものは自分が片付ける。これが人として生きる道であり、人間社会の理(ことわり)だ。それに準じると、「私ならこうしている。あなたはなぜそうなのか?だから結果が違ってくる。ゆえに、ここをこうすべきだ!そうでなければならない」と私は主張する。それが社会人としての歩む「道」であり「理」だと信じる。それを無視したまま、過去の職業で慣れ親しんだ考え方、理解の仕方、対処の仕方の枠のまま、「経営」を、「政治」を司ってはいけない。


世の中を見渡せば、人の倫理を棚にあげ、企業の倫理を論じる経営者・学者の姿勢が極めづけであるが、もう一つの雄が政治家である。社会保険・年金問題が脚光を浴びていた頃、ミスター年金などと持ち上げられ、批判のための批判を繰り返す人をご記憶ではないだろうか。あたかも理性的に話しているようでいて、中身といえば論理と立場を忘れて感情を振り回す。まさにプロパガンダそのものなのに公共の電波に朝から堂々と乗せる。現代社会の苦しみは、人間社会の根幹を成す倫理において、当たり前のことが疎かになっていることである。わが社にも「楽をしてたくさんの給料をもらいたい」という人や、「準備は嫌、だが表舞台には出たい」などと、わがままを言う人がいる。そんな人が多くなってくると、人間としての生きる道が見えなくなってしまう。この流れを止めるために日々の仕事が費やされている現実が最大の悩みである。本来であれば、もっとお客様への貢献について全てを費やすべきなのに。


最近になってよく親の言葉を思い出す。「人間は誰であっても一人では生きていけない。周りの人たちとの触れ合いによって育てられるのだ。だからどんな時も、周りの方々への感謝を忘れないように。」また、「周りにいる方への思いやりを忘れないように。何事にも誠実に礼儀正しく接するように。その日々があなたの人生となり、あなたが生きるということになる」と。当社の役目は、社会の流れに流されず、勇気を持って当り前のことを当たり前に体現していくところにある。ゆえに、人間として生き、人間として生きる努力に全力を尽くす経営の舵を取り続ける毎日が、私の道である。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 282号(2008)

僕は日本人

忘れかけていた、“農耕民族”の生き方
鉢植え草木にみる人間社会の掟



最近の出来事に振り回され、鉢植えの花々や木々に水をやるのを疎かにしてしまった。七年前位から一緒に暮らしてきた友たちである。雨の日を除いて、毎朝朝食の水を注ぎながら話しをしてきた。僕の苦しい時も悲しい時も話し相手になってくれた。動かないから安心だった。今から思い返せば沢山の大変な時もあったはずだ。暑くて耐えられない時もあったのだろう、また寒くて凍えてしまいそうな時もあっただろう。でも暑く寒いコンクリートの上でじっと我慢をしながら毎年花を咲かせ、青々とした葉をつけてくれた。それだけで安らげた。しかし今年になって毎朝の対話が途切れ途切れとなった。内外に起こりくる激変がピークを迎えた五月後半頃には、そんな草木たちのことなど頭のどこを探しても見当たらなかった。そんな激動の日々を過ごすなか、工夫を加えることができるようになった。最近になって、東に位置するコンクリートの広場に目が向くようになった。


ある日の朝そこから目に飛び込んできたのは、無惨にも枯れ果てた木々たちと薔薇であった。一瞬身勝手にも我が目を疑った。彼らは、どんな思いで枯れていったのか。炎天下にもかかわらず水をくれない主をどういう目で見ながら命絶えていったのか。何も喋らないことをいいことにとんでもない罪を犯してしまった現実に潰されそうになった。この地球に生まれてきたという意味では、僕と同じ命である。そのような命を持つ彼たちを、僕の楽しみの為に栽培し始めた訳ではなかった。しかし、結果的に自分の楽しみとしてしまった。僕という個人的な身勝手な楽しみが、大切な自然界の尊い命を絶やすことになってしまったのである。人間の都合のよい奢りがもたらした残酷な現実である。


僕たち日本人は、雨の日も風の日も田んぼに行って雑草を抜き、水をやり作物を育ててきた農耕民族である。どんなことがあっても、仲間と力を合わせコツコツと努力を積み重ねゆく農耕民族であった。またそうしなければ生きていけなかったのである。僕はそんな日本人でありながら、とんでもない間違いを犯していた。僕の草花たちが、毎日毎日水をやらなければ枯れてしまうように、会社も全く同じだと素直に思える今日この頃である。この経験により、自然界に対する人間の身勝手な振る舞い(自然に成長・生育する流れを変えること)は、必ず人間界に負の遺産として還ってくるものだと理解出来るがゆえに、今日も地球と積極的に関係をしていこうと決意している。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 281号(2008)

孟子の一文に助けられる

「憂患に苦しんでこそ本当の生き方」
決して逃げずに一人前を目指す



創業当時から楽な事はなかった。ヒト・モノ・カネが無い上、情報までも無い状態でのスタートである。来る日も来る日も苦難の連続であった。そんな時の心の支えとなったのが母から言われた「誰にだって試練が来るわけではない。試練に出会うという事は貴方に役目があるという事だよ。」また、「人には、乗り越えられない試練は無い!来たという事は、必ずその試練は乗り越えられるということだ。」である。当時、確かにそうかも知れないなと思いあたることがあった。だから一度歩み始めた道からは決して逃げることはなかった。そう思い返すと、確かに第三企画も自分から選び進んだ道である。そのことに気付けば、困難に向かって真正面から取り組む事ができ、まっしぐらに28年間を走ってきた。


そんな苦しみの日々のなかに孟子の一文があった。舜は田んぼを耕していたところを尭から引き挙げ用いられるようになった、その事を例に挙げる個所である。「天が人に大いなる任務を与えようとする時は、必ずその人の心や志を苦しませ、その筋骨を疲れるほど働かせ、その一身を窮乏にさせ、する事なす事がそのしようとする意図と食い違うような苦境に立たせる。こんなにもこの人を苦しめるのは、天が、その人を発憤させ、その人の本性を忍耐強いものにし、その結果、今まで良くする事の出来なかったものをなし得るように、その人の能力を増大させ、そして大任を負わせるに足る人物にしようとする為である。


人というものは、おおむねあやまって後によく改め、心に苦しみ考えにあまって、そこで初めて発憤して事をなし、困苦が心にたまって、思わず顔色にあらわれ、声に出るようになって、そこでやっと悟ることが出来るものである。国家においても同様で、内には法家(法度を守る世臣)・払士(君を助ける臣)がなく、外には敵国・外患のない国はおおむね亡んでしまうものである。以上のことを考えてみると、人というものは、憂患に苦しむことによって本当の生き方が出来、安楽にふけることによって、だめになってしまうという事が分かる。」(新釈漢文体系孟子)だから今日も頑張れる自分がある。第三企画の目的である300年の継続を現実のものとする為に、多方面からの方々のお力を借り、人前を目指す日々である。しかし右があるように左があるのは当たり前、一方に片寄ってはバランスを崩すことになりかねない。組織は正直である。反省しきりの昨今、相変わらず困難の日々が続く。

 

 

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  • 引用 RBAタイムズ 280号(2008)
 

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