家族力⑪
思い出してみよう!無償の愛
命のリレー 走者のエネルギー源
お母さんが妊娠すると、自分の骨を作るよりも赤ちゃんの骨を作るのを優先する体になるのだそうだ。だから、お母さんはよくカルシウムを摂らないと骨粗鬆症になりやすいともいわれている。自分の骨身を文字通り削って、それでいてちょっとでもお腹が動くと、手を当てて動いた!動いた!といって大喜びする。そんな日々を過ごして迎える臨月、いよいよ十月十日(とつきとうか)で陣痛との戦いが始まる。そして、赤ちゃん誕生。お母さんはこの苦しみとの戦いを終えたすぐ後、生まれた子供を腕に抱え、優しく包み込み、わが子を受けとめるが、その姿には、今までの苦痛や苦労の影も形もない。
生まれたばかりの子どもは、昼夜関係なく、朝な夕なにお乳を欲しがり泣き喚く。小さい歯でお乳を噛んで血がでてしまうこともある。それでも、お母さんは文句ひとつ言わず黙々と赤ちゃんに応える。
少し大きくなるとオネショ。その時お母さんはいくら眠くても、眠い目を擦りながら着替えをさせる。自分が寝ていた乾いた布団に寝かしつけ、自分はオネショの上にタオルを敷いて寝る。朝起きると、オムツや下着の洗濯。どんなに臭くても、汚くても、顔色ひとつ変えず黙々ときれいになるまで洗う。それはオムツがとれるまで続くのだ。
美味しいものは自分より子どもに食べさせる。子どもの好きなものを忘れない。子どもの好物を目にしたら、それがどこであっても、その度に子どものことを思う。着るものもそう、自分が欲しいものを我慢して、子どもにきれいな洋服を用意する。それは子どもが成人しても、壮年になっても続く。それがお母さん。
物に限らない。人間関係においても同じである。どんな悪さをしても、必ず守る。どんな立場の上の人が相手であっても子どものためなら戦う。守る。正義がなくても守る。子どもが病気になれば、「代わってあげられるものなら、代わってあげたい」と口にし、自分が寿命を全うした後のことまで心を配る。それがお母さん。これが無償の愛なのだ。
このように無償の愛によって誕生し、無償の愛によって育まれた私たちは、家族の歴史の最先端に生きることが役目であり、それが自らの一生なのである。まさに人類史という舞台に繰り広げられる命のリレーといえよう。
リレーといえば、毎年私たちを感動の渦に巻き込んでくれる箱根駅伝のたすき渡し。毎年、出場権を獲得するため選手を補強する。しかし私たちの命のリレーは、交代することもできなければ補強することもできない。ゴール無きリレー、どこまで走るかも、どう走るかも最先端を走る私たちにかかっているリレーなのだ。走者は無償の愛をエネルギー源としてひたすら走る。
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- 引用 RBAタイムズ 309号(2010)
家族力⑩
人間として生きていける力の源
「親」に瞬間移動する力こそ家族力
「自分がなぜ生まれてきたのか?」を知る人は誰もいない。ましてや、「生きる意味」となると考えても答えを見つけることは難しいだろう。生きる理由も意味もわからぬままに、なぜ人間は生きていけるのか?結論を先に言えば、それは家族があり、家族力があるからなのだ。
家族は、「両親に子ども3人の5人家族」というように数に表すことができ、目にも見える。「大家族」とか「核家族」という表現もできる。ところが、家族力となると目には見えないし、数字で表現することもできない。ましてや手にとって示すことはできないものである。そういう家族力とはどんなものか。そしてそれが「なぜ人間は生きていけるのか」の回答になるのか。私達は、生まれてきた時に「心から喜んでくれる人に出会うから」、「ただそこにいるだけで喜んでくれる人に出会うから」生きていくことができるのである。これをもたらすのが母親による目に見えない愛、この無形にして強い愛が家族愛であり家族力である。これによって生きられるのである。私達は、誕生の瞬間に無意識のうちに自分が生きる意味を本能的に自覚している。誕生という母親との出会いは、無自覚的に「生きる意味」となり、「生きる価値」となり人格を形成する核となっているのである。
同時に子どもは、その誕生によって夫と妻という男女を「お父さん、お母さん」へと瞬間移動させるのである。もちろん、「お父さん、お母さん」を「おじいちゃん、おばあちゃん」へと瞬間移動もさせるのである。この瞬間移動の力こそ家族力の根源である。子どもの誕生という出来事は、お父さんやお母さんを知恩とか、報恩という愛の世界にいざなうものなのだ。これが、無償の愛の源泉であり、これによって「ただ一人」の人間が生成するのである。いつの場合も、赤子は無償の愛の対象となって誕生するオンリーワンの存在である。両親にとって赤子は、ベットにずらりと並んでいるなかで「あなたでなければダメ」な存在なのだ。つまり、この世に生まれてきた全ての人は、生まれてきたこと自体で既にオンリーワンの存在なのである。「ただ一人」の人の誕生だからこそ、「お父さん、お母さん」はわが子の愛おしさを鮮明に心に焼き付け、「ただ一人」の人だからこそ、わが身を省みることもせず、夜泣きされようが愚図ろうが一生懸命育てるのである。
この無償の愛から育まれる親子の関係から醸成されるのが、敬愛(=尊敬と親しみの気持ち)である。
この敬愛こそ家族力のもう一つの姿といえるものである。
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- 引用 RBAタイムズ 307号(2010)
家族力⑨
ペット飼育と子育て 愛の違い
子育ては親への感謝を表す行為
子どもの誕生とともに、夫婦が自ら「親」を誕生させたか、どうか。それによって、家族力は決定されてしまう。
現代社会では、時には事件の形をもって、親が自らの親を誕生させたかどうかを社会に明らかにしてくれる場合がある。先頃4歳児死体遺棄事件しかり、生後3ヵ月男児虐待殺人未遂事件しかりである。なぜ、このような事件が発生するのか。その原因は何なのか、それが分からなければ、現状の打開は困難である。自らの内に親が誕生していない親であっても、子どもが誕生する時には、五体満足を願う。そして誕生後においては、健康に育つか心配する。長じて学校に行くようになれば、まずは成績に目が行き、勉学を督励し塾通いに熱心になる。体力作りに目が向けば、英才教育を行うのもやぶさかでない。
しかし、子育てはペット飼育と違うのである。自らの内に親を誕生させていない親は、自分に都合のいいように子育てをする。自分の都合が悪くなるようなことがあれば、子育てを放棄する。可愛いから、癒されるからといってペットを飼育していても、大きくなって扱い難くなったから、言うことを聞かなくて手に負えないからといって捨ててしまうペットの飼い主の心境に瓜二つである。ペットへの愛情は、邪魔になったら捨ててしまう行動に表われているように、有償の愛なのだ。
それに引き替え、子育ては、対象となる子どもへの愛情に加えて、自分が親に育ててもらったことに対する感謝の想いに裏打ちされている。我が子を授かったその時に、自分が今在ることに思いを馳せ、自らの両親にどれほど感謝の念を持つことができるのか。その感謝の念こそが自らの内なる親の正体である。この感謝の念を知恩と言い換えれば、自らの内に親を誕生させるか否かの境目となるのは、この知恩である。この知恩があるからこそ、無償の愛が生まれる。眠い目を擦りながらでも深夜に泣き出す子どもをあやすことができるし、ダダをこねて言うことを聞かない子どもに辛抱強く向き合うことができるのである。
現代社会で発生している乳幼児をめぐる事件に戻ろう。この手の事件は未熟な親が起こした事件だと言われている。この未熟さは何なのか。子どもへの愛情が足りない未熟さなのではなく、自分が育ててもらった両親への感謝の念、知恩が足りないから未熟であるのだ。知恩(親の恩を知る)が我が子を育てることによって報恩(親の恩に報いる)になるのである。
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- 引用 RBAタイムズ 305号(2010)
家族力⑧
親が本当の親になれるか
自我の成長の第三段階「親心」
物事には必ず二面性がある。子どもの誕生の場合においても然りである。私たちの人生における子どもの誕生という出来事は、一方では親を誕生させることでもある。親となる夫婦は、これまでの人生で遭遇した出来事、進路決定を始めとして結婚、趣味等々、ほとんどの場合において、自分を中心に決めてきた。その固く、壊れそうもない、その人らしい生き方が、180度変わり始める起点となるのが、子どもの誕生なのである。
子どもの誕生は、今までの人間関係が愛憎・損得・善悪という自分中心の価値観に基づいていたのに対し、無償の愛・利他・容認という一体感的価値観へと変わっていく瞬間となる。それは同時に、女性が妻になった結婚という瞬間をへて、更に母親を兼ねなければならなくなる時であり、夫になった男性が父親の立場を兼ねる時でもある。
この出来事を、単に、子どもの誕生によって家族構成員が一人増えたとみる現象として捉えてはいけない。その見方では、前回、「夫婦は子ども誕生のその時、協力し合いながら今までの生き方に耳を傾け省みることが家族力向上となる」と述べた「耳を傾けて省みること」にならない。子どもは、夫婦とは全く別の、一個の人格を持っている人間である。決して夫婦の所有物ではない。この一点を勘違いしてしまうと、子どもに夢を託す的な生き方となってしまうのだ。あるいは、泣き喚いてうるさくて言うことを聞かないからといって、目に余る折檻をして平気でいる親となってしまうのだ。
私たちは、幼少の頃と青年期の二回、自我意識の芽生えを経験している。反抗期といわれているものは、その最たる変化の兆しである。この反抗期を経て人間は成長する。ところが、実は、反抗期に匹敵する自我の大きな発達時期が大人になっても訪れる。それが、結婚と子どもが誕生するその時、なのである。それは、「子ども心」から「恋心」になり「親心」となってゆく人間の成長過程である。
この大人になってからの成長過程が成熟しないまま、単なる子どもの親となると、自らは「親」を誕生させていないので、食事を与えず餓死させたり、折檻を繰り返して死にいたらしめる犯罪者に転落することになり、それを食い止める歯止めを失ってしまうのだ。
このように子供の誕生とともに、夫婦が自ら「親」を誕生させているかによって、単なる血縁関係という人間の集団としての家族なのか、それとも自らの犠牲も省みないという親子関係の心が通じ合う相乗効果を持つ家族なのか分かたれる。家族力とは「親子の心が通じ合う」相乗効果のことなのである。それはまた現象面として、家族同士が協力という形で私たちの目に映るものである。
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- 引用 RBAタイムズ 304号(2010)
家族力⑦
第一子誕生は夫婦の一大変換点
協力と対話、どの次元のひと時か
結婚生活は、生まれも育ちも違う男女が共同生活を営むことである。その夫婦にとって、間違いなく重大で、最大の出来事は最初の子どもの出産である。第一子誕生は夫婦の変換点でもある。夫婦はその第一子の育成、教育について多くの選択肢に直面する。この選択肢を通して、若い夫婦は自分たちなりの家族を作りあげていくのである。
子どもにはどのような人間になってほしいのか、そのために、何をすべきか、何を避けるべきか、それぞれの設問にいくつもの選択肢が生まれる。お稽古事ひとつをとっても選択肢の多さに迷う。子をもつ親なら誰しも経験したことだろう。お稽古事はいくらでもある。人気ベスト3といわれるスイミング、英語・英会話、ピアノ・エレクトーンをはじめ、スポーツ系、文化系、学習系、いろいろある。どれをやらせるのか、一つだけか、二つも三つも習わせるのか、それとも習い事から子どもを解放するか。
夫婦が抱える諸般の事情で、習い事はさせられないと決めつけてしまう生き方がある。この場合の対話は「仕方ない」から始まる。一方、自分と子どもの双方の状況に判断基準を置いた対話は、諸般の事情を通過すべき難関と見る生き方、妥協点を探り出す生き方である。さらに上の次元の対話は、自分の人生と子どもの人生を鑑みた判断を模索する生き方、社会の中に生きる一人として、どう在るべきかを問う生き方である。
第一子誕生は、実は自分たちが生きてきた人生の総点検の機会でもある。単なる夫婦の共同生活から家族へ、その変換点が、第一子誕生のその時である。夫婦はここで生まれ変わらなければならない。それを、今までの延長線上と捉え、子どもに夢を託すような生き方をすれば、行き着く先は所欲的生活(欲に駆られてする生活︱前号ご参照)から導き出される結末への転落である。
わが子を抱きかかえるその時、夫婦は、膝を突き合わせ、今までの生き方(自分史)に耳を傾け、反省する「ひと時」を持てるか、どうか?そこから更に、自らの人生へと思いを広げていく「ひと時」とすることができるか?その時をきっかけとして、新たな日々へ、自らを変革していけるか、どうか・・・?夫婦が協力して持つこの「ひと時」が、家族力向上の差となる。
協力というからには目的が欠かせない。お互い、共通の目的に向かうところに対話が生まれてくる。この対話にこそ、力を合わせ向かうべきゴールへの道筋が隠されている。協力する力は、目的とする次元に比例して湧き上がってくるものである。あなたは家族とどの次元の「ひと時」を持ちますか?
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- 引用 RBAタイムズ 303号(2010)
家族力⑥
智慧の階段を上がるための家族力
今は聞慧、思慧、修慧のどの段階?
前回に「知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである」と書いた。分別智と無分別智など、知恵の区分けも説明した。つまるところ、知恵(智慧)の分別智は無分別智に包含されてこそ智慧となる。つまり知恵力とは、包含する力だ。問題は、この包含する力の増大をどう身につけるかである。では、知恵力を高めるために何をすれば良いだろうか。
中国哲学の孟子は、生活と智慧の関係を三段階に分けた。これを安岡正篤氏が分かりやすく説明している。『「所欲的」生活(欲に駆られてする生活)から、「所楽的」生活(楽しみを求めてする生活)、「所性的」生活(人間の本性、仁・義・礼・智・信を自然に発する生活)へと到達するにつれて、見聞きした智慧(単なる理解力)から段々真実の智慧が磨きだされる』と。
さらに安岡氏は『仏教にも「聞」、「思」、「修」と「慧」を区別する』と仏語の三慧を持ち出して、孟子の考え方との類似性を述べている。「聞慧」とは聞くこと、「思慧」とは考えること、そして「修慧」とは実践すること。この三慧とは、智慧を得る道である。古歌に、「耳にきき、心におもい、身に修せば、いつか菩提(悟り)に 入相(いりあい)の鐘」といわれてもいる通りである。孟子の区分けをくだけて表現すれば、「欲しがり、手にし、使いこなす」であって、三彗と符合するのだ。
このような区分けを念頭において、現在を省みるとどうなるか。職場では目先の数字をあげるため、道具探しと技術探しに奔走する日々である。よく目にする「ツール」「スキル」といった類のものである。教育においても、記憶力を優先した小手先のハウツーものに関心を示す。それが現状である。まさに、「追い求め」・「耳にきき」・「思いつき」で物事をすまそうとする文化に侵されてしまった「所欲的」生活の姿が、ここにある。数字化された目標に追いまくられる日々、自分を支えるための物品の所有に奔走する日々が、ここにある。
智恵力とは、所欲=所有への行動から、所楽=利用への行動に移り、所性=本来の自分へ向けた行動に向かって前進する力と言えよう。換言すれば、聞慧=聞きに向かう行動から、思慧=思い考える行動へ、そして修慧=日常に展開する行動へと前進させる力と言えよう。すなわち家族力とは、夫婦間における会話の段階が三慧のどの慧に属しているのかという認識から始まって、共々に協力して、一段あげる努力をする力のことである。次回はこの協力する力について考えてみる。
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- 引用 RBAタイムズ 302号(2009)
家族力⑤
執着や煩悩を取り去るのが知慧
知恵は自利と他利を融合させる
前号で家族力とは、夫婦の知恵力であると書いた。知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである。この知恵とは何なのか、明らかにしておかなければならない。知恵には、知恵と智慧の二つがある。日常で使われている「知恵」は、「物事の道理を判断していく心の働き。物事の筋道を立て、計画し、正しく処理していく能力」である。もう一つの「智慧」とは東洋三大哲学の一つである仏教語としての「智慧」である。意味するものとしては、「相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧」をもって、「物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力」 (大辞泉)である。
華厳経では、「智」は因果、順逆、染浄などの差別を決断する作用であるといって「智」を決断作用とし、「慧」は諸法の仮実、体性の有無などを照達することであるとして、疑心を断じ、しかも事物そのものを体験的に知ることである、としている。知恵という言葉を日常使っているが、その言葉の背景にはこのような仏教語の智慧があるのである。総じて智慧は、物事を正しく判断することであって、悟り(正しい考え・行動)に至る方途であり、正しく物事を認識し、判断する能力である。これによって執着や愛憎などの煩悩を消滅させることができるといえよう。
ところで「智」には、分別智と無分別智という分け方がある。分別智とは、「私たちが普通にものを認識し理解する能力」である。この能力は、常に有無・善悪・是非などの対立概念で分析・区別して分別(判断)するので差別智とも言われ、その判断の基準は自分中心の心(我執)である。もう一つの無分別智は、我執の煩悩である分別を取り去って、ものの在り方を正しく見る能力である。蛇足ながら、「分別がある」「分別がない」という使い方とは意味合いが異なる。
言い方を変えると、分別智は知識に基づく判断、自利の判断であり、無分別智は智慧に基づく判断である。自利と他利を区分せず、融合したものが智慧なのである。私たちの知識とは、客観的に物の何であるかを分析して知る分析知。このような知識を克服して、それを実践智に深め、物の真相に体達するというエネルギーまで深めた場合のことを知恵という。大学受験で評価されるのは知識であって、社会人となったビジネスの世界で評価され、成果が見えてくるのは知恵であるといったら、両者の違いは明確になるだろう。知識の積み増しだけにベクトルが向き、目を奪われている家族が、果たして幸せを手にすることができるだろうか。
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- 引用 RBAタイムズ 301号(2009)
家族力④
六大欲を制御・統合する知恵
家族の幸せは知恵力を高める事
誰もが職場で経験することであるが、自分自身をそのまま認められたいとの欲求と、周りの人達の視線に自分をさらす恐怖との間のジレンマに陥ることがある。これも一つの知識欲の産物といえるものであるが、この場合においては知識欲による統合は成されていない。私たちの日常に目を転じると、人は幸せを目指して、社会に評価されたいと成功を望み、自分中心に好きなことがしたいと願いながら生きている。いわゆる生きるということは、こうありたいという欲望とこうあるべきだという願望の狭間でもがくということである。それは、相手の意向を汲みながら自己を主張するという、謙虚さとわがままの二律背反の日々といっても過言ではない。
鳩山首相は所信表明で「人間の究極の幸せとして、①愛されること、②誉められること、③役に立つこと、④必要とされること」と述べた。これを達成するための条件は、食欲・性欲・睡眠欲・財欲・名誉欲の五大欲を強力に統合できる知識欲がもたらしてくれる。この場合の知識欲とは、ヒトゲノムの解析や遺伝子操作技術の開発や原子力の研究開発等にみられる最先端の知識を追求しようとする原動力であり、それが日常生活(生命活動)に現れてくるものと捉えることができる。
この知識欲を、昇華させ、制御・統合させた働きを持つもうひとつの知識欲の姿が「知恵」である。制御・統合とは、人類の幸せと繁栄の為に、感情をコントロールし、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ思考能力を発揮する人間性そのものである。この「知恵」が六大欲を制御・統合する前頭前野の持つ真の実体であろう。
であるなら社会の最小単位である家族における六大欲の調整(制御・統合)とは、家族の幸せと一家の繁栄のために感情をコントロールし、家族を敬い、優しさをもって、責任感のある、決断力に富んだ思考能力、すなわち「知恵」を発揮することである。そして個人における「知恵」とは、「日々の生活において、鏡を通して自らの姿(表情・身なり)を省み整えること。学びを通じ人類の過去の歴史と同じ過ちを繰り返さないこと。そして、日常において模範となる人、注意を施してくれる人の意見を素直に取り入れ自らを正すこと。」である。
家族力とは、夫婦の知恵力である。この力が家族間の人間模様を織りなす核であり源である。そして知恵力が家族の格を形作る。いわゆる幸・不幸は、家族における知恵力のバロメーターであるゆえ、不幸だと思うならば知恵力を高めることに夫婦が手を取り合うことから始めれば、その家族は必ず幸せへとベクトルが向くのである。
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- 引用 RBAタイムズ 300号(2009)
家族力③
分かった「人間の条件」前頭前野
六大欲の調整は手つかずの時代
六大欲の制御について興味ある出来事がある。それは1848年、米国ヴァーモント州で起こったある鉄道工事事故である。この事故が人類史に新たな「人間の条件」をもたらしたのである。フィネアス・ゲイジ氏は鉄道工事現場監督であった。その事故は、爆風で飛ばされた長さ30センチの鉄棒が、ゲイジ氏の前頭葉を直撃貫通するというものであった。ゲイジ氏は一命を取り留めたものの、この事故で前頭葉の先端部分である前頭前野のほとんどを失ったのである。病院での彼は事故の重大さをよそに、これといった機能障害もなく順調に回復していた。いわゆる普通の正常な人間として復帰したのである。
しかしである。職場仲間はびっくりした。現場監督を務めるほど責任感の強い優秀な働き者であったゲイジ氏は、どこかに行ってしまった。眼前にいるゲイジ氏は、卑猥で、自己中心的で、すぐに切れ、いざという時にも関わらずなに一つの決断もできない、悪意に満ちた、どうしようもない、全く別人といっても言い過ぎでない人物となっていた。この事故を機に、前頭前野の役割が明らかになったのである。事故後のゲイジ氏のごとく「卑猥で、自己中心的で、すぐに切れる、決断ができない、悪意に満ちている」のは、ヒトとしての本能そのままの振る舞いをする、六大欲の制御が利かない人間である。理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ思考能力の機能、それが前頭前野の役割であった。
そもそも生きものは、食欲、性欲、睡眠欲に基づく本能的振る舞いで、外部からのエネルギーを取り入れ、自己を維持・発展させる、「環境に開かれた存在」である。その環境適応能力は、大小の差こそあれすべての生き物に与えられている。それに加えて、人間が社会的な動物であるがゆえに、私たちには財欲、名誉欲が加わり五大欲に振り回されることになるのである。人間はまさに、五大欲で生きているといっても過言ではない。コメディアン植木等のいう「わかっちゃいるけど止められない」である。
そんな私たちは、わずかに知識欲によって五大欲を制御・調整する術を解き明かそうとしてきた。「人間の条件」たる前頭前野の役割を解明してきたのはこの知識欲によるものである。ところがこの知識欲も統制・制御しなければならない対象なのである。原子力の研究がそうであったし、ヒトゲノムの解読や遺伝子操作も知識欲の欲するままにしていいのか疑問がつきまとう。知識欲は成果となって現代文明を形作ってきた。がしかし、知識欲を加えた六大欲の調整においては全くと言っていいほど手つかずである。
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 299号(2009)
家族力②
一人の人間にみる六大欲と個性
六大欲の共鳴、増幅が生む家族力
前号で、家族の中心は社会的な「大人」の夫婦であって、食欲・睡眠欲・性欲・財欲・名誉欲・知識欲といった六大欲を制御することができる人間でなければならない、といった。今回は、この六大欲がその人の個性をつくることについて述べよう。
私たちに備わる個性について辞書には、「個人を特徴付けている性質・性格。その人固有の特性」とある。性質とは、その人に生まれつき備わっている気質であり、性格とはその人が生まれつき持っている感情(主観的な心の動き判断=快い・不満だ。美しい・感じ悪い等)や意志(自身が目的的行動を生起しそれを持続させる心の強さ)である。さて、この個性の説明にでてくる「性質」「性格」「特性」という言葉のすべてに付いている「性」に字についてである。「心が立って生きる」と書くこの字は、「生まれつき持っている心の働きの特徴」であり「人や物に備わる本質・傾向」と辞書にあるごとく、人間が動くとき、すなわち生きる瞬間(生命活動)に出会い・触れ合うものすべてに対する「個々人の反応の仕方」をあらわしている。すなわち性質・性格とは、立って活動する無形の心(一人の人間)が、その生活空間において出会い触れ合う現実において、その都度反応しながらも、一定の反応における法則性(傾向性=行為)を現してくる現象を総じて言い表している。
その個々人の反応の仕方、それに「質」があり「格」があるのである。個々人の反応を、人間社会全体にとって有益か否かで区別したものが品位・品格という価値判断である。「品」という四角い形を三つ(ここでは人間と解釈する)並べて書いた漢字は、三つを比較検討し順位をつけ評価する言葉である。また、「格」は、こつんとつかえるかたいしん棒を表す言葉であり、人に当てはめれば、しんにもつ本質のことである。
私たちが目にできる現象からあらわになる個々人の個性は、その人さえ自覚することがなかった「自分」がいきなり顔をだした姿である。もちろんそれは私たちを動かしている六大欲が基である。その六大欲の強弱と組み合わせにより織りなされる動態の一面が個性となって表れ、「その人らしさ」といわれるものとなる。
私たちの一大イベントたる結婚とは、格と格との触れ合いであり、こつんとつかえるかたいしん棒にお互いが積極的に感応し合うことである。言い換えれば、結婚は男女の六大欲の共鳴であり、結婚生活とは六大欲の増幅を目指すものである。この六大欲のベクトルと増幅の度合いが、その集団すなわち家族の力の源なのである。
追加情報
- 引用 RBAタイムズ 298号(2009)