久米 信廣の 「徹」

 

生きることと目標

目標があれば 何でもよいのか
目標にこだわり続け、徹する
 
 
 人が生きるとはどういうことなのか?この問いに、人類は古来から思索を重ね、「目標に向かうこと」と気付きます。その目標とはどんな目標でもいいのでしょうか。どんな目標でもいいから、持てばいいのでしょうか?
 目標があるなら、その目標の中身は問わない、何でもいい、なんていうことがある訳はありません。人の世である以上、一人では生きられないのがこの世の中です。なにより、一人では生きていけない地球環境に私たちは置かれているのです。私たちは常に誰かと共同して命を永らえてきたのです。ですから、そういう環境にある私たちの目標がなんでもいいはずはありません。
 
 
 そもそも、人類の歴史を振り返れば、「生き延びる」ということこそ目標であり、そのために共同する行為こそが大切だったのです。共に生き延びるという目標が、今の人類社会を作り上げた連結ピンであり、ここに人類が持った目標の本質が隠されているのです。
 生き延びるために体系的に作られたもの、経験により積み重ね、作り上げられたもの、それが哲学とか思想だったといえるでしょう。生き延びるという命の欲求から発しているのです。人類の目標を現しているのです。
 ところが、この目標がどうでもいい、と言っている人がいるとしたらどうでしょう。その人は、過ぎゆく時間が自分のかけがえの無い、取り戻すことができない命だと知らない人です。行った行為が、他人の心の中に染み込んで消えないということを知らない人です。そういう人は、人生を歩く本人だけが人生を知らないことになります。
 
 
 目標はいくつ掲げてもいいでしょう。ただ、次の三点の条件を満たすものでなければいけないと考えます。つまり、①世の中に役に立つこと、なぜなら私たちは誰であっても何事も一人ではできないから、②自分を前進させるもの、なぜなら自分を下げるものであっては一人になってしまうから、③自分や周りを幸せにするもの、なぜなら他人が不幸になれば一人ぼっちになってしまうから。
 ですから、第三企画は目標にこだわります。そして、徹底するのです。第三企画の目標は「人の前に明かりを灯す」ことによって「300年後に生まれ来る子ども達に今以上の地球環境を残す」ことです。
 世の中には、ただ自分が儲ければいい、利益があがればいい、それが幸せだ、と考える人がいます。でも、それだけでは、三つの条件を満たしていません。最近になって、ようやく経済成長一辺倒で突き進んできたことへの反省がでてきたようですが、目標をしっかり持ってほしいと願っています。
 
 

追加情報

  • 引用: RBAタイムズ 2013.05 325号