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 「みんなと別れたくない」 

名取市美田園の仮設住宅に住む三浦さん(75)


三浦さん

 「何? 東京から来た? 上がってお茶でも飲め」−仙台空港アクセス線美田園駅前の仮設住宅に住む三浦信江さん(75)は記者を快く迎えてくれた。仮設住宅を見るのも、もちろん家の中に入るのも初めての経験だった。

 三浦さんは東日本大震災について次のように話した。

 「旦那を脳梗塞で平成4年に亡くし、私ひとり空港の側に住んでいた。ひとり息子が仙台に住んでいる。その日は遺族会の会合が終わって、家に帰るとき震災にあった。急いで家に帰る途中、白い車に乗っている若い人が『どこまで行くの』と声を掛けてくれて、車に乗って帰ろうとした。ところが、帰るまでに道路が通行止めになっており、消防の人が『津波が来るから、仙台空港へ行きなさい』と声を掛けてくれた。それで、家にも帰らず避難場所になっていた集会所にも行かず空港に逃げた。あの白い車の人も消防の人もどなたか名前を聞かなかった。どこさ行ったかどげんなったか今でも気がかり」

 「空港も電気が消えて、雪が降って寒かった。幸い、食べものだけはお土産品があったので飢えは凌げた。2日間そこで泊まった。家? 家は10年前に建てたばかり。旦那が20棟のビニールハウスをやっており、旦那が稼いだお金で建てた。私もハウス3棟でチンゲンサイを作っていた。その家は大工さんがしっかり建ててくれたお蔭、1階は津波でやられたが、2階だけは水浸しにならなかった。でも危険区域に指定されたから住めなくなった。そのあとは体育館の避難所暮らし。仮設に入居したのは去年の5月29日」

 「息子が『うちに来な』といってくれるが、みんなと別れるのがつらい。独りぼっちになったら痴呆症になる。だから、どこさでも会合などがあると出かける。みんなと一緒にいると楽しいよ。山あり川あり。冗談言って笑いあっている。でも、夜、ひとりでテレビ見ていると自然に涙が流れるときもある。11歳の孫が書いた作文が河北新報に出た。『仮設に住むようになって花火やバーベキューができなくなった』と書いているが、こげんことになって孫にも申し訳ない」

 三浦さんの住む地域では54人が犠牲になったという。8人家族全員が亡くなった家もあるそうだ。


壁に飾ってあるものはみんな自分で作った作品だという

◇     ◆     ◇

 これまで仙台には10回ぐらい取材などで訪れているが、会話に難渋することはほとんどなかった。ところが、三浦さんは名取市に生まれ名取市で育ったという。東北弁を理解するのは大変だった。何度も聞きなおし、原稿にまとめられるようにした。

 しかし、本当は三浦さんが話したとおりの東北弁で書きたかった。地の言葉でないと言いたいことは伝わらないのではないかと思った。三浦さん、ごめんなさい。


三浦さんが住む美田園の仮設住宅

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(牧田 司記者 2013年3月21日)