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絶対高さ制限の背景にある100尺規制とは

 

「31m、20mの数値自体に今日的意味はあまりない」大澤氏

 先に紹介した東京工業大学大学院社会理工学研究科・財団法人土地総合研究所研究員・大澤昭彦氏( 33 )は、「市街地建築物法における絶対高さ規制の成立と変遷に関する考察 −用途地域の100尺(31m)規制の設立根拠について−」(土地総合研究所「土地総合研究」 2008年冬号)と題する論文を発表している。

 建築物の絶対高さ規制を考える意味で、重要と思われるので以下に要旨を紹介する。

 大澤氏は、「近代以降の我が国における絶対高さ制限の嚆矢(こうし=ことの始まり=記者注)となったのが、1919(大正8)年に制定された市街地建築物法(建築基準法の前身)の絶対高さ制限である。住居地域では65尺(後に20m、1尺は30.3p=記者注)、住居地域以外の用途地域では100尺(後に31m)に高さが制限された。 1970 (昭和45)年の建築基準法改正で容積制が全面導入されたことに伴い、50年間運用された『100尺規制』が撤廃された」と論じている。

 現在の高度地区(02〜07年に導入・変更したもの)における絶対高さ制限値が15m(19都市、全体に占める割合45.2%)、20m(12都市、同28.6%)、31m(11都市、同26.2%)、25m(10都市、23.8%)の順になっており、31mという半端な数字は、この100尺制限に由来するという。

 大澤氏はこのあと、市街地建築物法の制定に関する当時の議事録、 文献、論文などを紹介。「自然のまま放任されて居っても100尺という制限をそれ程突破するというような高い建物は建たない…」という論文(東大大日端研究室、1978、P107)などを引用しながら、 当時の内務省は100尺より低い制限値にしたかったが、数値の科学的根拠を示すことができなかったために、既存の最も高い建物の高さや海外の事例、わかりやすさ ( ラウンドナンバー ) などをもとに100尺が導き出された、としている。

 大澤氏はさらに、65尺の由来・根拠、尺貫法からメートル法へ、容積制への導入などについて論じている。65尺については「「当時住宅におけるエレベーター設置がほぼあり得なかったことや、5階が歩いて登れる高さの限界だった」などと述べている。

 大澤氏はこのあと、絶対高さ制限の規制撤廃、再評価などについて述べ、結論として次のように記述している。

 「かつての絶対高さ制限値31m、20mの活用頻度が高いが、31m、20mの数値自体に今日的意味はあまりない。しかし、…市街地建築物法の理念は現代においても色褪せていないように思われる。…地域の状況を冷静に分析した上で高さ制限を活用し、『文化の揺籃』となる都市を育むことが望まれる」

◇  ◆   ◇

 記者は、この大澤論文を興味深く読んだ。と同時に大澤氏も指摘しているように、現在進められている高さ規制について以下の疑問も沸いた。

 現在、目黒区や渋谷区で予定されている絶対高さ規制の制限値は10m、20m、30m などと10m刻みになっているが、どうしてこのような半端な数値になっているのか。それぞれ21m、31mにすれば、7階建て、10階建て(1フロアを3mと換算)が建つではないか。このほうが良好な住宅が建ち、結局、コストも下がるではないかという疑問だ。

 もう一つ、絶対高さ規制は、規制緩和が受けられる大規模で優良な建築物を建設する誘導策になる側面がある半面、劣悪な建物を増やすことになる危険性もはらんでいるように思う。絶対高さと建築コストの関係、都市における景観美などについてももっと論議すべきだ。

 絶対高さ規制がいかに劣悪な建築物かになるかは、国立マンションの事例が示している。高さ規制がなかったとき、明和地所が最初に考えたプランは、市民に開放された公開空地を設けたものであった。ところが、条例が施行されることを恐れた同社は自主規制≠ノより高さを抑え、現行の擁壁≠ェあるようなマンションになった。さらに、高さを20mとした場合でも容積率が消化できるとして、国立・住民側が示したプランは、日照、プライバシーが全く考慮されていない刑務所マンション≠セった。

 絶対高さ規制が、この国立マンションをきっかけに燎原のように広まった。

 良好な都市景観の形成よりも近隣紛争の予防≠ノ重きを置く行政主導の絶対高さ規制は、良好な都市景観・街づくりに寄与するとはどうしても思えない。官・民・学が連携して進めるべきだと思うがどうだろう。

(牧田 司 記者 6月10日)