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明和地所の創業者 原田利勝氏が死去

故原田利勝氏

 

 明和地所の創業者で現相談役の原田利勝氏が6月11日午前4時30分、肺がんのため死去した。享年69歳。同社は社葬として6月18日に通夜、同19日に告別式を青山葬儀所(港区南青山 2-33-20 )で行うと発表した。

柔道選手として活躍 口外しなかったひざの故障 

 記者が訃報を知ったのは当日の午後9時30分だった。信じられなかった。3年前、同社でお顔だけ拝見したのが最後となった。病気のことについては、ごく一部の人しか知らされておらず、社員のほとんどの方も知らなかったようだ。

 原田氏は、北海道砂川市の出身。父は三井鉱山の電気技師で、11人兄弟の5番目として生まれた。高校時代、柔道の選手として活躍。将来を嘱望されていたが、家計が苦しかったため本人は父と同じ三井鉱山に就職を決めた。しかし、進学を望む関係者の勧めで東洋大学に進学。特待生として柔道を続けることになった。

 その後、柔道部主将を務め、東京オリンピック強化選手としても名前が挙がった。だが、本人は限界を悟っていたようだ。大学2年生のとき膝を痛めたのが悪化していたからだ。それでも原田氏は怪我を口にはしなかった。退部はそのまま退学につながるからだ。

有象無象の集団を変えた掃き溜めに一輪の花

 大学を卒業後は、博報堂を経て大京(当時、大京観光)に入社。オイルショック後、経営が厳しかった同社の経営を立て直した。その後、横浜支店長として徹底した地域密着営業を展開、年間数物件しか供給できなかった同支店をドル箱支店に育て上げた。大京の黄金時代の立役者となった。次期社長が確実視されていた。

 大京観光に入社した当時を知る人は「何しろ那須の別荘を売っていた時代、有象無象の集団だった。原田さんは、そんな中で掃き溜めに一輪の花≠フような存在だった」と語っている。

 ところが、原田氏の存在をよしとしない勢力があった。昭和61年、矢を持て追われるように退社する。

 「一生、大京のために尽くす」と考えていた原田氏は、やむなく昭和61年4月24 日、大京時代の部下だった数人とともに「明和地所」を設立。

 その後、神奈川県で大京を上回るマンションを供給して業績を伸ばし、平成8年に株式上場を果たした。

部下の奥さんの誕生日には花を贈り、夫婦の記念日には特別休暇

 原田氏は、業界紙記者泣かせでもあった。取材に応じることはまれだった。記者も数回しかインタビューできなかった。それも、こちらが質問することに対してイエス≠ゥノー≠オか返ってこなかった。シャイなのだ。その一方で、大勢の社員との飲み会などでは「記事にはするなよ」と前置きしながら、よくしゃべってくれた。

 寡黙な人で怒ると怖い人だったが、ほとんどの関係者は「心の優しい人だった」という。部下の奥さんの誕生日には花を贈り、夫婦の記念日には特別休暇≠与えた。関係者には、子どもの名前に原田氏の名前の「利勝」と同じ名前をつけた人が何人もいたという。「飼い犬に利勝≠ニいう名をつけて、毎日、蹴飛ばしていた社員がいた」という笑い話も伝わっている。

 病状が悪化した今年に入ってからは、抗がん剤の影響もあったのか、苦楽をともにした大京観光時代の仲間の名前をうわごとで呼んでいたという。桜の満開の時期に家族と一緒に花見をしたのが楽しそうだったという。

地域密着で大京の黄金時代築く

 大京がマンションデベロッパーとして大きな地歩を築けたのは、原田氏が徹底した地域密着型の経営を行ったからだといわれる。原田氏は、マンション施工で地元業者を優先した。技術的に難しい工事は大手ゼネコンとJVを組ませ、技術を習得させることもした。地場業者との関係を密にすることで、仕入れ情報で圧倒的な優位に立てた。

 地域密着を貫いたからこそ、明和地所を設立できたともいえる。飛ぶ鳥を落とす勢いにあった大京をクビ≠ノなった人に救いの手を差し伸べたのは地元ゼネコンだった。

 会社設立資金などほとんどない原田氏らに、当時、大京と関係が深かったS建設を除きほとんどの地場ゼネコンが出資を引き受けたのだ。

 記者は、会社設立して間もないころ、原田氏の腹心″p剞m氏と話し合ったことがある。現在の高杉氏はすっかり角が取れ優しい顔をしているが、その筋の人≠ニよく間違えられたほどこわもてのする人だった。

 その高杉氏が「地元のゼネコンが支えてくれたのがうれしい」と横浜駅前の喫茶店で涙を流した。鬼の形相の高杉氏が目を真っ赤にした光景は今でも忘れられない。「この会社は伸びる」と、そのとき確信した。

 原田イズムは、明和地所はもちろん、多くの大京OB会社に引き継がれている。

 

(牧田 司記者 6月12日)

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