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絶望の淵から再生に立ち上がった畠山・芳賀・深澤の三氏

「第4回 間伐材活用シンポジウム」


「第4回 間伐材活用シンポジウム」(憲政記念館講堂で)

 国土緑化推進機構は11月8日、「第4回 間伐材活用シンポジウム〜地域資源・森林を生かした復興〜」を行った。三部構成で、一部はソングライター・上田正樹氏とソプラノ歌手・雨谷麻世氏のチャリティコンサート、二部はNPO「森は海の恋人」理事長・畠山重篤氏の基調講演、三部は同氏、NPO「吉里吉里国」代表・芳賀正彦氏、盛岡広域振興局林務部林業振興課長・深澤光氏の3氏によるパネルディスカッション「地域資源・森林を生かした復興」。畠山氏、芳賀氏、深澤氏はともに3.11で被災し、畠山氏は母親を亡くしている。会場を埋めた約400人の参加者は、絶望の淵から再生を目指し立ち上がった三人の話に聞き入った。

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「オリンピックはたくさん金メダリストがいるが、これは全世界で5人だけ」
世界の5人が受賞した「フォレスト・ヒーローズ」のメダルを掲げて会場を笑わす畠山氏

 「おじいちゃん、魚がいっぱいいるよ」−東日本大震災で母親を亡くし、カキの養殖施設を全てなくし沈黙の海に変わり果てた海に「もう孫に希望を託せなくなった」と絶望感を抱いていた畠山氏のもとにその孫が駆け寄ってきた。震災から1カ月後の4月だった。海には回復力があると経験則から分かってはいたものの、畠山氏に大きな希望の光が灯った一瞬だった。それから全国のボランティアとともに養殖再開に動き出す。地元の杉でカキやホタテの養殖いかだをつくり、2年後の収穫を目指した。

 予想外だったのは海の回復力の強さ、大きさだった。昨年11月、孫が「おじいちゃん、いかだが沈みそうだ」とまた掛けてきた。通常出荷まで1年かかるホタテはわずか半年で育っていた。今秋の出荷を目指していたカキは1月の段階でピンポン球のように育っていた。「森は海の恋人、森と川と海はつながっているというこれまでの考え方が間違っていなかった」ことを畠山氏は実感した。

 昭和18年生まれの畠山氏は地元の気仙沼水産高校を卒業後、家業のカキ養殖を継ぐ。海の環境を守るには海に注ぐ川、さらにはその上流の森を守ることの大切さに気づき、漁師仲間とともに平成元年から広葉樹の植林活動「森は海の恋人運動」を続けている。今年2月、国連森林フォーラムの「フォレスト・ヒーローズ」受賞。

 10年前から京大、北大などとともに科学的研究を行っており、魚介類が摂取する植物プランクトンにはイオン化された鉄分が多く含まれることが必要で、そのイオン化鉄分は広葉樹が腐葉土となるときにつくられるフルボ酸と結びつくというメカニズムを解明した。三陸沖が日本一の漁場となっているのは、単に暖流と寒流が交じり合うということだけでなく、広大なアムール川やオホーツクの豊かな森林環境が大きな役割を果しているという。

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芳賀氏

 芳賀氏は3.11の被災状況を次のように訥々と語った。「家族は無事だったが、津波で全てを失った。白い砂も泣き砂も海もなくなった。街の3分の2がなくなった。職場もなくなった。友人、知人の遺体を何体もみた。後片付けに疲れてクタクタになったが、夜が来ても眠れない。3時間も4時間もたき火の炎を見るしかなかった。被災してから2、3日後でした。その炎が『この苦しみ悲しみを背負って生きていけ』と教えてくれた。幸い森だけは残った。そこで私はキコリになった」

 芳賀氏はまた、今後の活動について次のように話した。「究極のエネルギーは薪だと思うが、生業として生きていくのは容易なことではない。黒字にするには複合的林業、自伐的林業が必要だが、漁業を営む人や街のサラリーマンとも協働して杉の葉っぱまで森の恵を有効活用する活動を行っていく。素人集団しかできない仕事はある」

 芳賀氏は昭和23年生まれ。玄界灘に面した漁村の漁師の家に生まれ、24歳でアフリカ・エチオピアに渡る。その後パプアニューギニアで働いたのち、昭和51年、妻の実家である岩手県吉里吉里(大槌町)に移住する。3.11の津波で家は全壊、すべてを失う。家族は幸い無事で、「海に寄り添って生きる」ことを決意。なけなしの貯金をはたき借金までして波音が聞こえる地に家を建築。地域復興を目指すNPO法人「吉里吉里国」理事長を務める。

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深澤氏

 「寒暖の差が激しくやることがないというのはつらいもんです」−深澤氏は仕事の関係で移動中に福島駅で被災し、そこで3日間避難生活を余儀なくされた経験を紹介したあと、その後の被災地支援活動を通じて「森と人を結ぶ薪」をテーマに活動していることを話した。

 被災地支援活動は、職場の遠野農林振興センターに薪ボイラーが届けられたことから本格的に始まった。4トントラックに薪ボイラーを積み20カ所ぐらい被災地を回ったが、「結構です」とみんな断られた。風呂を沸かそうにも水の確保が難しかったからだ。断られ続けていた中、吉里吉里地区(大槌町)の避難場所で活動する芳賀氏らと出会い薪風呂つくりが始まった。がれきで薪をつくり、風呂釜は漁業で用いる生簀を利用した。ヘリポートもつくり自衛隊の支援で水を確保した。薪風呂が完成したのは3月31日だった。

 活動するうちに深澤氏はガレキを薪にして売れないかということを考えた。芳賀氏らと協力して1袋10キロの「復活の薪」を6月から9月まで5,000袋全国に販売した。

 深澤氏は、「伐採した木材のうち建築材として利用できるのはせいぜい半分。その他の端材、低質材は需要がなく間伐すればするほどコストもかかり林業は瀕死の状態。木質バイオマスを普及させるには出口対策が欠かせない」と課題も指摘した。乾燥施設も圧倒的に足りないという。

 深澤氏は昭和34年生まれ。東工大農学部林学科を卒業後、岩手県に移住。県職員として林業行政、林業技術の普及、実証に携わる。 3.11は遠野農林振興センター在職中に被災し、以来、復興支援活動に携わる。「森と人を結ぶ薪」をテーマに薪割リストとして精力的に活動を行っている。


コーディネーターの斗ケ沢秀俊氏(毎日新聞 水と緑の地球環境本部長)

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 「復活の薪」「薪割リスト」もそうだが、「森は海の恋人」という素晴らしいフレーズは全国に広まった。畠山氏が最初に考えたのは「ホタテもカキも森の恵」だったそうで、「何だかお経みたい」ということから地元の歌人に相談し「森は海の恋人」になったという。

 「森は海の恋人」は英語の教科書にも採用されたが、問題は英訳だった。最初に考えられたのは「lover of the sea 」とか「darling of the sea 」。これはおかしいと考えていた畠山氏にすばらしい英訳を提案されたのは何と美智子妃殿下だったそうだ。美智子妃殿下は「お慕い申し上げます」という意味の「long for」を提案され、結局、「The forest is longing for the sea, the sea is longing for the forest.」という韻を含んだ英訳になった。

 この畠山氏の話を記者は忸怩たる思いで聞いた。わがふるさと三重にも気仙沼に負けない世界ブランドの「的矢のカキ」があるからだ。記者は「森は海の恋人」が世に出る前に「的矢のカキ」を生産している佐藤養殖場を取材したことがある。そのとき、関係者から「的矢のカキがおいしいのは周辺の山がいいから。プランクトン発生に適した養分が注ぎ込まれている」という説明を受けている。三重にはどこにも負けないカキが生産されているのに、どうして「カキ」といえば広島や宮城・三陸なのか。是非「的矢のカキ」を食べてみてほしい。

 畠山氏は、すばらしいフレーズが生まれた背景には石川啄木、与謝野晶子、宮沢賢治らを生んだ東北の土壌があると自慢したが、三重だって負けていない。芭蕉に本居宣長、佐佐木信綱らを輩出した。日本一きれいな宮川もあれば大台ケ原もあるし伊勢神宮もある。三重県は「美し(うまし)国おこし」を展開しているが、以前、観光PRに三重に縁もゆかりもない「中尾ミエ」を起用して顰蹙を買ったことがある。この程度の想像力・知性しかないのかと記者もあきれた。知恵を絞って「森は海の恋人」に迫ってほしい。

(牧田 司記者 2012年11月12日)