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しっかり地に足をつけていた「帰宅難民」


  巨大地震が起きた当日(3月11日)、記者は午後8時過ぎに西新宿の事務所を出た。隣のホテルマンに聞いたら、タクシー待ちは4時間とのことだった。そこで甲州街道の「帰宅難民」の波に乗った。20人ぐらいに声を掛けた。最初は「RBAタイムズ」の記者であり、取材である旨を告げた。大手の「○○新聞」なら話は通じただろうが、帰り道を急ぐ人々の多くは応えてくれなかった。そこで、メモも持たず、素性を明かさず聞くことにした。

 その「帰宅難民」の中から涙が出るほど嬉しい話が聞けた。一つはランドセルを背負った小学生2人を連れたお母さんと、その子どもの話だ。

 「市ヶ谷の学校を出たのが午後5時30分ですから、3時間以上歩いています」「教室の後ろのほうに座っていたら、後ろの本なんかが落ちてきて怖かった」「お父さんは仕事で千葉に行っており、何とか連絡がつき無事が確認できました」「パパは親戚の家に泊まるんだって」

 このお母さんは、地震が起きてすぐ市ヶ谷に向ったのだろう。バスを乗り継いだのか徒歩だったのかは聞かなかったが、おそらく歩いて迎えに行ったのだろう。往復で6時間以上だ。母子の絆とはこうして築かれるのだろうと思った。「さようなら」と声を掛けたら子どもも「さようなら」ときちんと答えてくれた。

 もう一つは、初台駅近くのある建築コンサルタント会社の「帰宅難民」への「休憩所・トイレの無料開放」だった。「休憩室とトイレがあります。休憩室は暖房も効き、テレビも用意しました。ご利用ください」と数人の社員が大きな声で声を掛けていた。「ビルのオーナーさんの了解も得て開放しました。自主的に行ったもので、社員数十人で対応しています。セキュリティの関係上、事務所内は無理ですが、皆さんに気軽に利用していただけるようにした。私の自宅? 春日部ですがようやく連絡が取れ無事が確認できました」(責任者の役員)とのことだった。

 その休憩室で菓子パンを食べていた、明大前まで帰るという学生3人組は「秋葉原で遊んでいたら、ビルがダンスを踊っているように揺れた」とそのときの恐怖を語った。

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 マスコミは、一様に「帰宅難民」「帰宅困難者」と報じた。「帰宅難民」とは言いえて妙だが、自宅に帰る人たちは「帰宅難民」では決してない。適当な言葉は見つからないが、腕を組んでいたカップルもいたし、談笑しながら帰る若者も多かった。記者のようにコートの背を丸めているのは少数派ではなかったか。みんなしっかりと地に足をつけていた。

(牧田 司 記者 2011年3月14日)