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故佐藤行雄氏の「第一グループ合同葬」


故佐藤行雄氏

 

 心不全のため去る5月7日、享年85歳で死去した第一不動産グループの創業者、佐藤行雄(さとう ゆきお)氏の「第一グループ合同葬」が6月23日行われた。葬儀委員長は島村宣伸衆議院議員、喪主は佐藤登志子さんと佐藤俊行氏。

 佐藤氏は戦後まもなく不動産業を創業、その後、第一不動産に改称。1982年に他社に先駆け不動産担保ローンを開始、業容を急拡大させた。不動産担保ローンの草分け的存在として知られる。

 最盛期には国内子会社9社、海外現地法人4社を有する「第一不動産グループ」(後にFREに商号変更)を形成。1988年には子会社の「第一コーポレーション」を店頭市場(現ジャスダック)に株式を公開。売上高は1000億円近くにのぼった。

 ティファニー本社ビルやワイキキ海岸の土地を買収したほか、88年には江川卓氏が東京ベイ舞浜ホテルなど3ホテルを経営する第一不動産グループのサンプラザ取締役に就任して注目を浴びた。

 佐藤氏は業界活動や社会貢献活動も積極意的に行った。不動産流通経営協会副理事長、東京都宅地建物取引業協会相談役、首都圏不動産公正取引協議会相談役などを歴任。1989年には学校法人杉並学院の理事長に就任。1990年には財団法人佐藤国際文化育英財団・佐藤美術館を設立。同年、大阪で開催した「国際・花と緑の博覧会」は大きな話題となった。

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 取材担当外であったため、記者は佐藤氏のことをあまりよく覚えていない。バブルの波に乗って成功した事業者の1人としてしか思っていなかった。

 それでもよく覚えているのは、第一不動産の本社ビル竣工式のことだ。当時、億ションといえば坪1000万円をはるかに越えており、豪華な設備仕様には慣れっこになっていたが、事務所ビルの豪華さには驚かされた。外観は当時としては珍しいガラス張りで、壁には本皮より高価といわれるバーズアイメイプル≠ェ採用されていた。床はふかふかのジュータン張り、会議室にはテレビ会議が行えるようになっていた。地下にはサウナ設備が整ったスポーツジムも備わっていた。 いわゆるインテリジェントビル≠フはしりだった。

 佐藤氏は、今回の100年に一度といわれる経済不況をどのように思われたか、ぜひとも聞きたかった。

(牧田 司 記者 6月25日)