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「どんな状況でも需要はある」

ナイス住宅事業本部首都圏営業部課長・籾山直輝氏(40



 「RBAタイムズ」のバックナンバーをPDF方式でご覧いただけるよう作業を進めておりますが、とりあえず最新号1〜2面を転載します。今回はナイス住宅事業本部首都圏営業部課長・籾山直輝氏です。

「汗をかかないといい知恵も生まれない」

宅配の発想が生んだユニークな4LDK

 昨夏のサブプライムローン問題をきっかけに、住宅・不動産市場は落ち込む一方だ。マンション市場も最悪の状況にある。供給が大幅に減少、その一方で在庫はなかなかさばけない。しかし、地元横浜、川崎を中心に住宅事業を展開しているナイス 株式会社住宅 事業本部首都圏営業部課長・籾山直輝氏(40)は「市況の悪化?  全く気にしておりません。 」と意気軒昂。ユーザーの個別ニーズに的確に応えれば、どんな状況でも確実に売れると確信している。かつてのバブル崩壊後の厳しい市場を乗り切ってきた男だけに、その言葉には重みがある。

個別ニーズを引き出す

 ナイス住宅事業本部首都圏営業部課長・籾山直輝氏(40)はきっぱりこういう。

 「市況の悪化?  全く気にしておりません 。確かにマクロ的には市場は厳しくなるでしょうが、社長以下、われわれは腹が据わっています。どんな状況になっても、一定の需要はありますから」

 首都圏マンション市場は極めて厳しい局面を迎えている。供給量は年間6〜7万戸台から4〜5万戸台へ急減、売れ行きを計る月間契約率も70〜80%台から50〜60%台へ低下。2戸に1戸≠フ割合で売れ残るという最悪の市場だ。

 にもかかわらず、籾山氏が強気発言するのはなぜか。「われわれは腹が 据わって いる」と語るように、マンション販売に取り組む姿勢が他社を寄せ付けないからだ。籾山氏はいう。

 「これは 当社の考え方 でもあるのですが、われわれはマンションのチラシ 広告を 自分たちで配布 します 。1日中、1軒 1 軒回って歩 くのも地元 の情報を足で収集するためです。汗をかかないといい知恵も浮かびませんから。 地元を知り地元で販売する為の 宅配 が当社の基本戦略です」

 同社が 地元 から学んだ、他社が絶対に真似の出来ないマンションの間取りがある。専有面積が70平方b台の4LDKだ。専有面積が70平方b台であれば、他社は2LDKか3LDKとするのが一般的だ。ほとんど全てが横並びだ。

 ところが、同社は数年前から一貫して70平方b台の4LDKプランを提案している。限られた予算内で子ども部屋など個室を確保したいファミリー層の需要を掘り起こした結果だ。物件によっては来場者の5割、6割が4LDKを希望するというから驚きだ。

 籾山氏は続けてこういう。

 「当社は、東京都の城南エリアでも供給は少なくありませんが、圧倒的に多いのは地元の横浜、川崎 です 。営業マンは契約から引渡しまでしっかりフォロー させて頂いておりますし 、70平方b台の4LDKプランのように個別ニーズにマッチした商品を 作 っています。また、免震 構造・強耐震構造 の積極採用など時代の要請にも応えております。

 当社の社員は、誠実な人間ばかり で飛び抜けて優秀な 営業マンはあまりいません が 、チーム制で 物件運営しておりますので 、チーム 員全員で 支え合い 販売活動しております 。

 お客さまとは 末長いお付き合いを頂きたいと考えておりますので、ご契約頂いたお客さまでも、何年後かのお住み替え、リフォームのときにまた当社がご指名頂けるようにお客様さまとのコミュニケーションを心掛けております。みんな、その使命を粋に感じ自分の仕事に誇りを持っています。こういった所が他社さんと異なるところだと思います」

 籾山氏は、現在、川崎市川崎区の大型マンション「アイランド グレース」(全539戸)の販売を担当しているが、面白い話をした。

 「川崎は、横浜と市場が全然違 います 。一度、市外に出ても 家庭を持つとまた地元に 戻ってくる人が多いんです。子どもの 人口割合 も非常に多い。当社は、このマンションのほかに昨年も 533 戸の大型マンションを供給していますが、 好調に販売を終えました。その50%は地元川崎区の方でした」

初契約で生きた野球経験

先輩社員差し置き戸建て契約

 最悪のマンション市場でも、籾山氏がしっかり前を見据えられるのは、同社に入社した当時の状況と無関係ではなさそうだ。

 早稲田大学を卒業した籾山氏は、平成3年、同社に入社した。バブル崩壊した翌年だ。最初に配属されたのは、主に建売住宅などを販売する地域開発事業部の町田営業所だった。

 「最初に担当したのは淵野辺の戸建てでした。10棟の現場で、価格が1億円です」

 バブル時の住宅市場を経験していない人には信じ難いかもしれないが、町田周辺の戸建ては全て1億円を越えていた。2億円、3億円の物件も珍しくなかった。マンションの坪単価は、町田あたりで400〜500万円が相場だった。

 淵野辺の戸建てから次に担当したのが相模湖の戸建てだった。

 「4000〜5000万円の50〜60区画ぐらいの現場だったのですが、ここも最初はなかなか 売れませんでした 。お客様に 来場頂けず 、掃除ばかりしていました。8月にようやく契約が1件取れたのですが、営業担当は私でした」

 お客様が来ない中でも 初の契約を取れたのは、後述するように、籾山氏の野球経験が生きたからでもある。「初契約 頂いたお客様 は、東大野球部出身の方で、野球の話しでものすごく話が盛り上がりました。それ以降も親しくして頂きました が、17年経った今でも忘れられないエピソードです」

 人は何が幸いするか分からない。地獄に仏とはこのことを言うのだろう。

 籾山氏はその後、浜松営業所などで戸建てやマンションなどの住宅販売を担当し、現在にいたっている。バブル崩壊後の厳しい時代を経験しているのが大きな財産になっているのは間違いない。

幸か不幸か 早実入学

 籾山氏は昭和 43 年、東京都中野区でサラリーマン世帯の長男として生まれる。小学2年生から野球を始め、のめりこんでいく。プロ野球のラジオ放送を聞きながらスコアをつけるのが日課となった。

 ところが、小学5年のとき、親から強制的に野球を辞めさせられる。受験のためだ。「母親は典型的な教育ママでして、塾は四谷大塚と 桐 杏学園の2カ所に通いましたし、毎日のように家庭教師をつけられました。1日起きている時間の ほとんど は勉強をさせられました」

 しかし、これまた人は何が幸いするか分からない。猛勉強のおかげで、籾山少年は、当時「大ちゃんフィーバー」を巻き起こした荒木大輔氏のいる早稲田実業に入学することができた。「ものすごかったですね。私も野球部に入ったのですが、荒木さん見たさに女の子が 沿道 に群がっていましたから」

 籾山氏はその後、高校も大学も早稲田で、高校まで野球部に所属した。「いい思いでは一つもない」というように、高校時代はあと一歩のところで 関東一高 や国学院久我山などに敗れ、甲子園の夢を断たれている。ケガもあった。皮肉にも籾山氏が高校に入学する前年と、卒業した翌年に甲子園出場している。

 大学に進学後は「これじゃプロは無理」と限界を悟り、もっぱらサークルで野球を続けた。

入社の動機も野球が縁

 進路については、学校の先生になろうと教職課程を選択。「教育実習のときは勉強をしました。1週間の間、中2と高2を教えるのですが、人生の中であれほど勉強したことはあり ません 。幸い、野球の話を導入部分に挟んで生徒が盛り上がってくれましたが…あとは遊んでばかりいました」

 ナイスに入社するきっかけは、「サークルの先輩がナイスに入社し、リクルーターをやっていましたが、それが縁です。当時は日榮不動産の社名でした。学校の先生になれなかったのは残念でしたが、いまでは会社に感謝しています」

RBA大会では過去2回準優勝

芦沢選手と体重200キロコンビ組み今も活躍

 ナイスは、RBA野球大会に平成8年の第8回大会から参加。その年と11回大会に東京ドームに進出してそれぞれ準優勝。通算では28勝28敗、勝率はちょうど5割。

 籾山選手は、大会参加当時からのレギュラーで、最近は同期入社の元スラッガー同社住宅事業 本部首都圏営業部 課長・芦沢常法氏(41)と4番、5番のコンビを組むことが多い。

 今大会の対スウェーデンハウス戦で籾山選手は、四球の芦沢を1塁に置き2ランを放った。写真の通り2人とも体重が100キロの巨漢で、籾山選手はホームインするまで普通の選手の2倍ぐらい時間がかかった。


籾山氏を紹介した「RBAタイムズ」 1面

(牧田 司 記者 12月8日)