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豪胆で茶目っ気もあった佐藤さん、さようなら

トーシンパートナーズ故・佐藤信哉会長の社葬


故・佐藤会長(平成15年10月28日、東京ドームで)

 

 トーシンパートナーズ取締役会長・佐藤信哉氏の訃報を聞いたとき、わが耳を疑った。あれほど元気な方がと信じられなかった。佐藤氏は、商品名にもフェニックス=i不死鳥)とつけたように、何度も挫折を味わいながら、その度よみがえった。どことなく胡散臭かったワンルーム事業を立派な事業に育て上げた。トーシンを設立した直後にバブル崩壊。市場そのものが消滅したが、インカムゲイン中心の新しいビジネスモデルを立ち上げたからこそ、いまの同社がある。

 しかし、自らトーシン革命≠標榜していたように、まだまだやらなければならないことはあったはずだ。志半ばの急逝が残念でならない。

 佐藤氏とは年齢が近かったせいもあり、親しくお付き合いさせていただいた。もっとも鮮明に記憶に残っているのは、同社野球部チームが平成15年、初参加したRBA野球大会で総合優勝したときの祝勝会での喜びようだった。

 「俺は、平成元年に会社を興してから、これほど嬉しかったことはない」と吉祥寺の居酒屋でナインの活躍を称えた。財布の中から万円札を抜き取り、活躍した選手に配った。「はい、殊勲賞」「はい、ファインプレー賞」「おぉ、お前も頑張った」といった具合だ。最後は、面倒くさくなったのか分厚い財布丸ごとナインに差し出した。「ええい、全部、持っていけ」と。

 このように豪胆な方だった。地獄を見た男ならではの強さがあった。学園紛争の中、うっかりミスでレポートを出し忘れて大学を除籍になった話から、呉服の行商、バーテンター、不動産の営業など職を転々としたこと、自ら興した会社を倒産させてしまったことまでたくさん聞いた。

 まさに波乱万丈の人生だが、「僕は、仕事で苦しいと思ったことは一度もない」と記者に語ったことがあるように、そんな人生を楽しんでいた節もある。

 茶目っ気もある人だった。下馬評にも乗らなかった同社チームが東京ドーム寸前まで勝ち進んだとき、「俺は優勝するまで禁煙する。願掛けもする、だから頑張ってくれ」と檄を飛ばした。1日50本も60本も吸うヘビースモーカーの社長の檄にナインが発奮しないわけがない。見事、その試合も乗り切り、ドームで佐藤氏は宙を舞った。

 ところが、佐藤氏は、記者が取材に訪ねたとき、こっそりとタバコを吸っていた。にこっと笑って「僕がタバコをやめられるわけがないじゃないですか」と答えた。

 もともとバスケットボールの選手だった佐藤氏は、身体も鍛えていた。「週に3回スポーツクラブに通い、1000メートル泳いでいる」とも聞いた。記者と腕相撲を取ったことがあるが、佐藤氏が左手で、記者は両手で挑んだが勝てなかった。

 今年2月ごろにワンルーム市場について取材を申し込んだが、上場を控えているためか丁重に断られた。あのとき押しかけてでもお会いすべきだったと、今は悔やんでいる。

 佐藤さん、ゆっくりお休みください。   

合掌

RBAタイムズ 編集長
牧田司

 潟gーシンパートナーズは本日(7月22日)午後1時から、6月25日午後1時30分に都内の病院で心不全のため享年61歳で死去した同社取締役会長・佐藤信哉氏の社葬(葬儀委員長:同社代表取締役社長・吉田隆也氏、喪主・佐藤悠帆さん)を青山葬儀所で執り行う。

(牧田 司 記者 7月22日)