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牧田記者 感動のモンゴル訪問記 全6回 第6回
 
「初恋の酒?」モンゴル酒
トクトウヨー(乾杯)とモンゴル流にウォッカの杯を干す

「トクトウヨー(乾杯)」とウォッカの杯を干すのがモンゴル流

 
モンゴルのお酒といえば、ほとんどの方はウォッカを連想するはずです。 確かに酒席では必ずウォッカが出されますし、乾杯の酒もウォッカでした。 アルコール度数は最低でも38度。日本の泡盛と同じぐらい強い酒です。 小さなお猪口ですが、モンゴルの方々は日本語の「乾杯」に当たる「トクトウヨー」 と言ってはクイッと飲み干していました。 天と地に感謝する意味をこめて、親指と人差し指でお酒をつまむようにして少し飛ばすのも正式の飲み方のようです。
 
モンゴル古来のお酒
 
さて、モンゴルにはこのウォッカのほかに、古来のお酒があります。 ウランバートル市のボルトサイハン行政長官に昼食をご馳走になったのですが、 同氏が日本酒や日本料理がお好きなことからお酒の話題になり、 モンゴル古来のお酒「モンゴル酒」を紹介されました。

モンゴル酒とは、牛乳を醗酵させたうえ蒸留したもので、水などを一切使用していないお酒です。 約800年もの歴史があるそうで、現在でも一般の民家では自家製のモンゴル酒が愛飲されているようです。 アルコール度数は16度ぐらいだそうですから、日本酒と同じぐらいです。

私が「是非飲んでみたい」と言ったところ、同氏は 「お水みたいな酒で、市場にはほとんど流通していないので飲むことは難しい」 と仰ったのですが、すぐどこかに電話を入れ、ペットボトルに入ったモンゴル酒を手に入れてくれました。

ウォッカをクイッ、クイッと飲むモンゴルの方から「水みたい」と言われても信じられなかった私は、 恐る恐る飲んでみました。するとどうでしょう、その「水」は、まさに初恋の味で、 「初恋の酒」とでも名づけたくなるようなお酒でした。

モンゴル酒のそんな感想を同氏に伝えたところ、同氏は次のようなモンゴル酒にまつわる話をしてくれました。
 
別名「だましの水」
 
昔むかし、寒い砂漠の道に迷ったロシアの軍人がのどが渇いたのでモンゴルの民家を訪れ、 「お水をください」と頼みました。モンゴルには水を振舞う習慣はありませんでした。 水はそれほど貴重なものだったのです。困った住民はモンゴル酒をあげたのでした。 ロシアの軍人はごくごくとおいしそうにそのお酒を飲んで帰りました。

しばらく経ってから、体がぽかぽかあったまってきたロシアの軍人は、再びその民家を訪ねてきました。 そして、こういったのです。「あのおいしい水はどこの川に流れているのか」と。

それ以来、モンゴル酒は「だましの水」と呼ばれるようになりました。
 
モンゴルを理解すること
 
ボルトサイハン氏に頂いたお酒は、その場で少し飲んだだけで、大事に持って帰りました。 帰国後、そのお酒を何人かの友人に飲ませてみました。 ほとんど全員が「何だ、こりゃ」と一様に驚きました。 「モンゴル酒」と聞いただけで、「強い」「まずい」という既成概念で飲んだためでしょう。 少し酸味のある「水」に面食らったのだと思います。

お酒とはそんなものです。「うまい」と思うからうまいのであって、最初から「まずい」と思えばうまくありません。

そういえば、あの大ヒットした「初恋の味」カルピスは、カルピスの創業者がチンギス・ハーンの子孫から乳酸を振舞われ、 「これが蒙古民族の活力の源にちがいない」と確信して発売に踏み切ったそうです。 大正8年です。「初恋の味」というキャッチフレーズではなく、 「モンゴルの活力源」とでもしたら普及などしなかったのではないでしょうか。

「モンゴル酒」に限らずモンゴルを好きになるには、モンゴルを理解することだと思います。 これって、何事にも共通することですよね。
 
 
(追記)わが国でモンゴル酒を輸入販売している広島中央酒販のホームページでは 「人体に必要な12種類以上の微量元素や18種類のアミノ酸、数種類のビタミンが含まれている… (悪酔いの元といわれる)メチルアルコールの含量は世界のお酒の中で最も低い…いくら飲んでも悪酔いしにくく、 年配の人にとっては栄養となり、女性には美容によいといわれる最高級品」と紹介されています。
 
牧田記者 感動のモンゴル訪問記 第5回
 
もっと心のこもった援助を
モンゴル相撲の力士達

モンゴル相撲の力士達

 
モンゴルは、わが国と飛行機で約5時間の近さですが、近くてもっとも遠い国の一つかも知れません。 モンゴル国について、私たちがモンゴルと言われて連想するものは、横綱・朝青龍の故郷、 チンギス・ハーン、遊牧民、ゴビ砂漠、ゲル(パオ)など断片的なものでしかありません。 ソ連崩壊によって社会主義体制から自由主義体制に移行し、現在この国がどうなっているのか、 きちんと説明できる人はほとんどいないのではないでしょうか。
 
蒙古斑、義経伝説、モンゴル相撲
 
わが国とモンゴルとは、太古の時代から深いつながりがあるようです。

例えば「蒙古斑」。生まれたばかりの子どものお尻や背中にできる青いあざのことです。 なぜこんな名前がついているのか知りませんが、日本人にはほとんどあるそうですから、 人種的にはモンゴルと日本は同一人種です。 しかし、今の若い人は蒙古斑=モンゴルと連想することはほとんどないようです。 学校でモンゴルについて教えることはないのでしょうか。

「義経伝説」もそうです。源義経はチンギス・ハーンだった≠ニいう義経伝説がまことしやかに伝えられているのも、 モンゴルとの強い関係をうかがわせます。青森には、義経が日本を脱出したという場所が奉られているそうです。

「モンゴル相撲」もまたしかり。わが国の相撲と、いくつも共通点があります。 日本の相撲では、力士が取組前、土俵上で仕切りをします。 両手を広げるあの仕草は、相手になにも武器を持っていないことを示す行為だそうですが、 モンゴル相撲でも同じように両手を大きく広げる仕草があります。 ひっょとすると、わが国の相撲とモンゴル相撲の起源は同じではないでしょうか。 今、わが国の相撲を席捲しているのは、横綱・朝青龍をはじめとするモンゴル人です。 現在、モンゴル出身の力士は幕内7人を含め総勢36人にも上ります。 モンゴルでもNHK総合テレビが映りますし、大相撲は人気番組だそうです。

今回の訪問で、モンゴルの人達がわが国へ大きな期待をかけているのがひしひしと伝わってきました。 モンゴル最大の私立大学、オルフォン大学では日本語学級がありましたし、 系列の小学校にも日本語教室があるそうです。 (それにしても、大学で使われていた日本語のテキストは、きちんと製本されておらず、 劣悪な紙にコピーされたようなもので、これを見て胸がいっぱいになりました)
 
日蒙貿易は他の国と大きな隔たり
 
このように深いつながりがあるにもかかわらず、初回にも紹介したように日蒙貿易はさかんではありません。 わが国が輸入しているのはウール原料、銅など約3064万米ドルに対して、 輸出しているのは一般機械、乗用車など約741万米ドルしかありません。 貿易額は中国やロシア、アメリカ、韓国に大きく離されており、全体に占める割合は数%にしか過ぎません。

今回の訪問で目立ったのは、韓国の積極的な動きでした。私は車のことはさっぱり分かりませんが、 同行した弊社・柴尾が「走っているのはヒュンダイばかり」ともらしたように、日本車の数は少なかったようです。 日本車では、古い宅急便の車が走っているのが目立ちました。

ウランバートル市制施行365周年記念行事に参加していたのも、韓国、ロシア、カザフスタン、 スウェーデンなどの国々で、わが国からは公式にはウランバートル市と姉妹都市を結んでいる 宮崎県都城市の収入役と企画部の方お二人が参加されていただけでした。 一方の韓国からは、政府の都市計画担当者など数人が参加されていました。 式典では日本側からはだれも挨拶に立たず、都城市の方々と私たち以外の日本人も見かけませんでした。
 
白々しいODA報告書
 
わが国のODAがこの11月に公表した、全21ページにわたる「対モンゴル国別援助計画書」には、 こう書かれています。

「モンゴルのGDPの約2割がODAであり…(中略)全ての援助のうち4割、 主要二国間援助国による援助のうち約7割は、わが国からのODAである」。 「こうした援助に対して『水に溺れていたモンゴルを救ったのは日本で、入院中のモンゴルを主治医として治療した。 今後は、退院したばかりのモンゴルを主要な後見人として支えて欲しい』などとして、高く評価されている」と。

文書全体は、あらゆるデータを駆使した感情が入り込む余地のない報告書でありながら、 このような誰が言ったかも明示していないコメントととして、しかも比喩的な表現で盛り込ませているところに、 私は異質なものを感じました。カネさえ出せば文句ないだろう≠ニいう姿勢がありありです。 心がこもっていないようです。

近くて遠い国≠解消するためには、人的な交流を含めた心と心の付き合いが大切だと痛感します。
 
(追記)11月28日、都城市長選挙で、新人で元県議の長峯誠氏(35)が当選しました。 長峯氏は、神奈川県逗子市の長島一由市長(37)を抜き、全国最年少市長となりました。 訪問記第1回でも紹介しましたが、モンゴルは若い人があらゆる分野で活躍している国です。 そのモンゴルと姉妹都市を結んでいる都城市の市長が全国最年少というのも何かの縁でしょうか。
 
牧田記者 感動のモンゴル訪問記 第4回
 
今も生きている「スーホーの白い馬」
ゲルの中で馬頭琴のしらべに耳を傾ける

ゲルの中で、馬頭琴のしらべに耳を傾ける(演者左隣はバータルゾリグ助役)

 
我が国の小学校の国語の教科書に「スーホーの白い馬」が取り上げられているのをご存知でしょうか。 モンゴルの昔話が原作です。ご存知ないかたのために、モンゴル国大使館ホームページより以下に引用します。
 
「ある夜、スーホーという少年が寝ていると、ゲルの外から怪我をした馬の苦しそうな声が聞こえてきました。 少年は手当をしてやり、数日後、馬は元気になります。そしてそれ以来、少年と白い馬はとても仲良く暮らすのですが、 ある日ハ一ンが現われて『競馬をやろう。そして勝った者を自分の娘の婿にしてやろう』というのです。 スーホーはこのレースに参加し、見事に優勝します。 ところが、ハ一ンはこの貧しい少年と自分の娘を結婚させるのはいやだと思い、少年から馬を取り上げたうえ、 追っぱらってしまいました。少年は毎日毎日馬のことを思い案じます。
  そんなある晩、ゲルの外で馬の声が聞こえました。少年が飛び出ると、 ハ一ンの家来に追われて傷だらけになった白い馬がいたのです。 『わたしは死んでしまいますが、ずっとあなたのそばにいられるように、 わたしの骨や毛を便って楽器を作ってください』そう言い残して馬は死にます。 少年は馬の遺言通りに楽器を作り、その楽器が今の馬頭琴だというお話です。

ベトナム戦争時、モンゴルはベトナムに馬を数百頭送りました。 そのなかの一頭がベトナムで行方不明になりましたが、数年後、持ち主のところに疲れ切って帰ってきて、 そのまま力尽きたというニュースがありました。

モンゴルの人々と馬との関係は、単なる家畜とその飼い主ではなく、 共に生きる仲間であるということがわかっていただけるでしょう」
 
ゲルの中で聞く馬頭琴の調べ
 
さて、私たちモンゴル訪問団は、1週間のスケジュールを全てこなした夜、 またもウランバートル市助役・バータルゾリグ氏の計らいで、 ゲルと馬頭琴の素晴らしさを体験させていただきました。

連れて行っていただいたのは、トゥヌンエフ民族芸能団という モンゴルの伝統音楽の演奏活動を行っている団体事務所兼演奏ホールでした。 団員は約40名。国からの援助がなくても自立できており、 アジア、ヨーロッパなどにも演奏旅行に出かけているそうです。ホールには立派なゲルが併設されていました。

ここで、ゲルについて少し説明しておきます。

ゲルとは「木(松材)とフエルトで出来た組み立て式移動住居。 内モンゴル自治区では『パオ』と呼ばれる。円形の骨組みの上に防水性の布をかけ、煙突代わりの天窓が開いている。 冬は『ホルゴル』と呼ばれる羊の糞を床下に敷いたり、同じく羊の糞を固めた固形燃料『フル』を燃やして暖をとる。 中心にはストーブが置かれ、その奥が主人、入り口右側が女性・子供、左側は男性・客人の席。 北奥の最上席には仏壇が置かれる」(モンゴル国大使館ホームページより抜粋)

私たちが見学させていただいたゲルは、とても豪華なものでした。 チベットのダライ・ラマ法王も訪れたことがあるとのことです。

そのゲルでウオッカや軽い食事などを頂きながら、 馬頭琴の作曲家&演奏者で第一人者と言われる方の生演奏を聞かせていただいたのです。 馬頭琴のどこかもの悲しい音色は、アルハンブラ宮殿≠ネどのスペインギター曲とはまた異なった趣があります。 私はウオッカを頂きながら、冒頭の「スーホーの白い馬」を思い浮かべたのでした。

モンゴルの人々の3分の2は電気のない生活をされているようですが、 テレビもラジオもない世界で、モンゴルの人々は馬頭琴で恋を語り人生を語り合っていると思うと、 胸が締め付けられるほど感動を覚えました。
 
牧田記者 感動のモンゴル訪問記 第3回
 
モンゴル最大の菓子製造工場を訪問
創業60年 モンゴル最大の菓子製造工場

創業60年、モンゴル最大の菓子製造工場

 
前出のウランバートル市・バータルゾリグ助役(40)のご紹介で、モンゴル国最大の菓子製造業の社長、 ツメンゲレル氏(40)に話を聞く機会に恵まれました。
 
「モンゴルは女性がよく働く」
 
この会社は創業60年。モンゴルの伝統的な製造方法で、 121種類のお菓子を1日15トン作っています。 創業以来、社会主義体制から自由主義体制、市場経済へ移行するまでに、 14人社長が交代し、同氏が15人目の社長です。 社員数は400人、年間400万ドルの売上高だそうです。 モンゴル国には約200社の菓子製造業がありますが、大手トップ 3の中でも最大シェアを占めている企業で、 モンゴル国では大企業といってもいいかもしれません。

就業時間は朝8時から夕方5時まで。従業員の実に95%が女性です。 「モンゴルは女性がよく働く」と同氏は言います。

同氏は、それまで穀類などの貿易の仕事をしていましたが、民主化の際、 「これから何をすれば生きていけるか」を考えた末、毎日安定した収入が得られるこの道を選んだそうです。 一念発起し、現在の会社の株式を7500ドルで購入したのが今から8年前の32歳のときでした。 当時、社員数は300人。独立してから8年間で100人の社員を増やし、雇用の拡大にも貢献しています。

厳しい自然環境下のモンゴルでは、菓子を作るのも大変な仕事です。 「水以外は全てロシア、中国、カザフスタンなどかからの輸入に頼っている。 コンスタントに製造するためには2カ月分を絶えず保存できるようにしておかなければならない」のだそうです。 中長期的な目標は、古くなっている機械を新しく更新し、さらに安定したビジネスにすることのようです。 「トータルクオリティを追求する」とも仰っていました。日本にも訪れており、菓子工場などを見学されています。

頂いたお菓子を記者も食べてみましたが、味は日本のお菓子とほとんど遜色ありませんでした。 日本のお菓子は世界的にもレベルが高いといわれていますので、 同氏が経営するこの会社もレベルが高いのだと思いました。

ツメンゲレル氏は奥さんと子ども3人の5人家族。趣味を聞いたら 「特にありません。うちでホッとするのが好き」という答えが返ってきました。
 
「足がいっぱい。頭は一つ」が伸びる
 
菓子製造業社長 ツメンゲレル氏 ツメンゲレル氏は次のようなモンゴルのことわざを紹介してくれました。 「足がいっぱい。頭は一つ」。

つまり、経営の指揮を取るのは1人で十分で、指揮に沿って動く人が多いと企業は伸びるという意味です。 わが国にも同じような意味の「船頭多くして舟山に登る」ということわざがありますが、まさにその通りのようです。

こんなことも指摘しました。「政治を自分のビジネスに利用しようとするビジネスマンが、 十分な勉強もせずに政治の世界に進出している。政治がビジネスになっている」と。 どこの国でも同じような問題を抱えているようです。

それにしても、32歳で大企業の社長に就任とは、凄い国ですよね。それと、もう一つ。 モンゴルでは太っていることが出世する条件とかで、同氏も写真のように丸々と太っていました。
 
牧田記者 感動のモンゴル訪問記 第2回
 
「RBAアジア中小企業講座」開講へ
国立モンゴル大学

来年2月、「RBAアジア中小企業講座」が開講する、国立モンゴル大学

 
モンゴル訪問3日目の10月28日、わが社の久米代表らは 「ウランバートル市市制施行365周年記念 RBA中小企業講座」を 来年2月21日〜27日にわたってモンゴル大学で開催することで合意文書を交わしました。 調印を行ったのは、訪問記〜1〜でもご紹介したRBAインターナショナル・バータルゾリグ顧問のほか、 モンゴル大学長、第三企画・久米代表の三者です。講座開講に当たって、 ウランバートル市長も全面的に賛成してくれたことから「ウランバートル市市制施行365周年記念」 の冠もつけられることになりました。

モンゴル訪問の大きな目的が、この「RBAアジア中小企業講座」を 開講するための取り決めを行うことにありましたから、その目的が達成されたわけです。
 
「300年後に生まれる子どもたちに今以上の地球環境を残していく」
 
RBAアジア中小企業講座とは、「300年後に生まれる子どもたちに今以上の地球環境を残していく」 という目的で設立された特定非営利活動法人RBAインターナショナルの活動の一環で、 アジア中小企業ネットワークを構築することで中小企業を支援していく講座のことです。

RBAインターナショナルは2002年7月、「第1回RBA国際学術交流平和会議」 を東京で開いたのを皮切りに、同年 10月には「RBAアジア中小企業研究会」を設立しました。 同研究会に参加しているのはわが国の明治大学のほか、北京大学、北京大学サイエンスパーク、 タイ・チュラロンコン大学、モンゴル国立大学などです。

今の時代を生きるのに精一杯なのに、どうして300年後か≠ニ疑問に思われる方も多いと思いますが、 わが社の久米が「300年後」にこだわるのは、次の中国の故事によるところが多いのです。 それは、老子の孫弟子である列子が書き残したとされている「列子書」の中にある「愚公、山を移す」です。 この話は、おおよそ次のような内容です。

90歳の愚公とその子孫が、往来に不便な山を切り崩し道を作ろうという相談をしたのです。 それを聞いた利口者は「そんなばかげたことなどできるわけがない」と言いました。 それに対して愚公は次のように言いました。

「あなたのように固定観念にとらわれているからダメなんだ。 僕が死んでも子どもがいるし、子どもは孫を生み、孫はまた子どもを産み、その子どもはまた子どもを産む。 子どもはまた孫を産む。このようにして子々孫々、果てることがない。 しかし、山は高くなることはないのだから、山を切り開くことはできる」と。 この話を聞いた山の神は、愚公の考えに感銘して、山を別のところに移しました。 つまり、何事も地道に取り組めばやがて成就するという諺です。

久米の活動の原点はここにあるのです。どんな小さなことでも信念を貫き通すことが必要なのだと。
 
 
牧田記者 感動のモンゴル訪問記 第1回
 
「政治・経済を支える若き人々」
うっすらと雪が積もる荒涼としたモンゴルの山並み

岩肌が剥き出しうっすらと雪が積もる、荒涼としたモンゴルの山並み

 
記者は 10月25日から30日まで、モンゴル国を訪問しました。 モンゴルの首都でもあるウランバートル市から招待を受けた市制施行365周年記念式典と、 当社などが進めているRBAにおける講座をモンゴル大学で開催するための調印式を取材するためです。 当社側からは久米信廣代表、総合企画室・柴尾清人参加しました。 先の中国訪問に続き、外国に行くのはこれで2度目でしたが、連日の国賓並みの扱いに感謝感激。 日中は取材に、夜は取材&歓待の酒席での飲酒に大忙しでした。以下、数回に分けて、 感動のモンゴル訪問記をご紹介します。 第一回は、社会主義体制から民主化・市場経済へ移行して 10余年のモンゴルの政治・経済を支えている若い人々の息吹を伝えます。
 
モンゴルはどんな国?
 
まず、はじめにこれから紹介するモンゴルがどういった国なのか、 外務省の公表資料などから概観してみます。

面積は約156万平方キロメートルで、日本の約4倍。人口は約247万人で、人口密度が世界一低い国です。 総人口の約6割の人が住む首都ウランバートル市の緯度は北海道と同じぐらいですが、 大陸気候と海抜1000メートルを越える地理的条件から、1年のうちほぼ半年の間、 平均気温がマイナスになる厳しい自然条件にあります。 我々が訪れた10月25日の夜中の気温は、マイナス15度でした。 街路樹などの草木は枯れ、緑はほとんどありませんでした。 岩肌が剥き出しの山々にはうっすらと雪が積もっていました。 もっとも寒い2月には最低気温はマイナス40度にもなるそうですから、表土はツンドラになるのでしょう。

言語はモンゴル語で、宗教はチベット仏教が中心です。 我々も歴史で習ったように、13世紀初頭のチンギスハーンの登場をきっかけに、 モンゴルは世界史の中心に踊り出ました。鎌倉時代に日本に攻め入った「元寇」はあまりにも有名です。 その後、モンゴル帝国は16世紀にかけて続きますが、内部抗争から帝国は瓦解。中国やソ連の影響を強く受け、 1921年から1992年まで社会主義体制がとられました。 ソ連の崩壊をきっかけに自由主義・市場経済体制に移行しましたが、東欧のような流血事件は起こりませんでした。 民主化・市場経済移行に伴い日本との関係も強まり、 1999年にはわが国の首相としては初めて小渕首相がモンゴルを訪問しています。

主要な産業は鉱業、牧畜、軽工業などで、1人当たりのGDPは約445米ドルです。 サラリーマンの1カ月の平均賃金は、日本円に換算すると約1万円だそうです。 日蒙貿易関係ではウール原料、銅などを日本に輸出(約3064万米ドル)、 一般機械、乗用車などを輸入(約741万米ドル)しています。 モンゴルに駐在事務所を持つ日本企業は14社、現地法人化した日系企業は92社です。
 
「若い人が若い人を登用して」国を発展させる
 
我々がモンゴル訪問中、公私にわたりお世話になったウランバートル市助役・バータルゾリグ氏は、 現在40歳。22歳で学長に就任、23歳で文部省に入省、 27歳でわが国の文部次官に当たる最高責任者に就任しました。34歳で国会議員に初当選。 今年の選挙には出馬せず、助役に就任しました。

バータルゾリグ氏が「モンゴルは、若い人が若い人を登用して国を発展させています」と語るように、 政治、経済、文化などあらゆる分野で30歳代、40歳代の若い人たちが、主要な任務についています。 ウランバートル市長は42歳ですし、国立モンゴル大学長、私立オルフォン大学長も30歳代に見えました。 オルフォン大学の教授の平均年齢が30歳と聞き、びっくりしました。 モンゴルでは教育機関の主要な役職はほとんど女性とのことでした。学長さんも女性です。 このほか、400人の従業員を擁し、年商400万米ドルを売り上げるトップ菓子製造業の社長さんも40歳です。

我々日本人には信じられないことですが、若い人たちが枢要な地位についているのは、 モンゴルの平均寿命が62.3 歳ということにも起因するのでしょう。 モンゴルの人たちの寿命が短いのは、半年間は平均気温が零度以下となる厳しい自然条件と、 厳しい寒さを耐えるためのカロリー過多の食事にもあるようです。 体を温めるためアルコール度数が40度を越えるウオッカを沢山飲むようです。 我々が訪問中、レストランなどで出された食べ物の多さにはびっくりしました。 私などは前菜だけでお腹がいっぱいになりました。

しかし、そうした理由よりも、社会主義体制から自由主義体制へ移行した際、 民主化に主導的な活動をした当時の学生が、その後も引き続いてこの国を動かしていると考えるのが正解だと思います。 先の菓子製造会社の社長さんはこんなことをおっしゃいました。 「足がいっぱいで頭が一つの会社は伸びる」。 日本のことわざの「船頭多くして舟、山に登る」と一緒の意味だと思いました。 恐らく、旧社会では何人もの長老が社会を取り仕切っていて、それが経済の停滞を招いたのでしょう。 長老支配を一挙に覆した国など、他にはないでしょう。 しかも流血の事態を招かなかったのは、奇跡に近いのではないでしょうか。

もう一つ注目したいのは、これは社会主義体制のいいところでしようが、 教育に力を入れていたために指導的な活動を行った当時の学生のレベルが高かったということです。 国民の3分の2が電気のない生活をしているにもかかわらず、文盲率が10%以下というのは信じられないことです。 民主化後も政治的には右にも左にも偏らず全方位外交を貫いてきたのも、平衡感覚の高さの表れだと思います。

そういえば、チンギスハーンが諸国を統一したのは40歳ぐらいだといわれています。 かの徳川家康が天下を取ったのは62歳です。 モンゴルとわが国を単純に比較するわけにはいきませんが、我々はもっともっと若手を登用しないとダメではないでしょうか。 わが不動産業界も頑張っているのは30歳代ではないでしょうか。